[Novel:05] -P:07-
晃は呪文のように、何度も何度もダメだと呟き続けた。そうしていないと、いますぐにでもこの優しい世界から宏之を奪い去ってしまいそうな自分が怖い。
宏之が細い身体を抱き上げて、自分の足の上に座らせた。向かい合うようになった顔を大きな手が包んでくれる。泣きすぎて少し冷たくなった頬。宏之は、晃の目元に唇を寄せた。
「聞いて?」
「聞きたくないっ」
駄々をこねる晃に苦笑を返して、宏之はやんわり唇を重ねた。啄ばむように何度か晃の柔らかい唇を吸う。そうしてもう一度「聞いて」と囁いた。
「思いつきじゃ、ないんだ」
軽い気持ちで、決断したわけじゃない。晃の孤独に触れるたび、いつも考えていたことだ。
淋しそうに人の顔を見ること。大勢の人と一緒にいるとき、いつも自分だけ壁の向こうにいるような表情を浮かべること、ちゃんと宏之にはわかっていた。
「コウを、一人にしたくない」
思うのはそれだけだ。
「なんだよそれ…バカじゃねーの…オレは慣れてんだよ。一人でいるのも、あっちこっち転々とすんのも、慣れてる。ヒロユキを大切に思ってる人も、ヒロユキが必要な人も、ここにはいっぱいいるだろっ…頼むから、バカなこと考えないで…」
そんなこと、決めてしまわないでと。晃は必死に懇願する。宏之はゆるやかに首を振った。
「今は、コウのことしか考えられない」
「ダメだって…なあ、ちゃんと思い浮かべて?大事な人いっぱいいるだろ?みんな泣くんだぞ。オマエに会えなくなったら、みんな…」
「いつか」
穏やかな瞳の中に揺るがない光を見つけて、晃は息をつめる。じわじわと自分の中で広がっていく熱に、長い長い時間に培われてきた痛みが、ふうっと軽くなっていくのを感じた。
「みんなに会いたくなったら。俺はちゃんと、帰ってくるよ」
そのときが、何年後であっても。
……ねえ。
今、全ての答えを出さなければならないなんて、一体誰が決めたこと?
晃は、急に雲が切れた青空を見ているような気分で、宏之の顔を見つめていた。薄く開いた口、咄嗟に言葉なんか出てこない。
「南極からここまでだって、十年かかる距離じゃない」
笑ったりするから。
晃はぎゅうっと宏之に抱きついた。
「芝居がしたくなったら、するよ」
「…うん」
「姉さんたちに会いたくなったら、会うから」
「うん、うん…」
「コウ、俺を連れて行って」
なんて愚かな話だろう?
晃と宏之は、なにもかも違うのに。今、一緒にこの街を旅立っても、すぐに二人は疲れてしまうかもしれないのに。
今日と決めた最後の時が、ただ来週に延びただけかもしれない。それなのにこんなにも幸せで、晃はまるでもう自分が解放されたかのように、心が軽くなっていくのがわかった。
視線を合わせる。
瞳の淵がわずかに茶色い、宏之の目を覗き込んで、すうっと瞼を閉じた。重なった唇が甘く感じてしまうことに、ちょっとだけ恥ずかしいような陶酔が揺らいでしまう。宏之の舌に口の中を舐められて、ねだるように自分の舌を絡めた。優しく吸い上げてくれる。何度か濡れた音をさせて、深いキスを重ねた。全身に回ってしまった甘い熱に浮かされ、とろりと溶けかかった目を開けた晃に、宏之はもう一度掠れるような声で
「俺を、連れて行って」
と囁いた。
ああ、と、小さな喘ぎ声を漏らせた晃は、全身の力を抜いて宏之の肩に縋りつく。
「一緒に来て…ヒロユキ」
ごめんなさい、と。心の中で何度も詫びる。自分まで可愛がってくれた、宏之を愛するたくさんの人たちに。
ごめんなさい。どうか許して。
少しの間でいいから、オレに宏之を分け与えて。
軽がると抱き上げてくれる宏之の首に腕を回して、身体をすり寄せる晃は、罪悪感で痛む胸に耐えながら、ゆっくりと息を吐いた。