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[Novel:07] -P:02-


 予想通り、炯はみるみる身長を伸ばし、同級生より頭半分背の高い旭希が隣に並んでも、視線を落とすことがなくなった。
 体つきも変わって、声も低くなった。
 それなのに。旭希の中にある感情は、大きく熱くなっていくばかりで、いっこうに消えることはなくて。
 旭希と変わらない身長なのに、元来骨が細く筋肉のつきにくい炯は、鍛えただけ結果の出る旭希よりも、並べば一回り小さく見える。
 声が低くなったとはいえ、優しい響きが消えることはなく、いっそう甘い艶を帯びるようになった。
 膨大な読書量に視力を落とした炯がメガネをかけ始めたのは、高校入学の頃。それはいままで晒されていた美しい面差しを隠し、彼の整った顔立ちを知るのは自分だけなのだと、旭希の優越感を煽った。

 高校を卒業する頃、旭希は一生言えないのだという苦い思いと共に、自分の中からこの恋情が消えることはないと認めた。
 もう、勘違いでも思い込みでもなかった。
 炯のしなやかな手。
 ほっそりとした体つき。
 なにもかもが、旭希に炯を諦めさせてくれない。そして、初めて彼の涙を見たとき。旭希は絶望と同時に、身が焦がれるほどの陶酔を味わったのだ。

 旭希は幼い頃から母に強制され、ずっとピアノを弾いていた。似合わない!と周囲には随分笑われていたが、炯だけは、一度も笑ったことがない。それどころか反論しない旭希に代わり、「みんな馬鹿だよねえ」と周囲へ辛辣な批評を向ける。

 ――旭希のピアノを聞いて同じことが言えるなら、耳鼻科へ行くことを薦めるね。僕はいま、タダで旭希のピアノを聞いていられることに、一生感謝してる自信があるよ。

 いつものように、にこにこと笑いながら。男がピアノ、というそれだけでからかっていただけの友人たちは顔を見合わせ、頭を掻いて謝罪した。
 旭希のピアノを誰よりも評価してくれたのは炯だ。「僕みたいな門外漢に褒められても、嬉しくないだろうけど」と彼は言ったが、旭希は誰に認められるよりも、炯に賛辞を送られたくてピアノに齧りつき、腕を磨いた。
 炯が指し示してくれた音楽の道は、いつしか明確な夢になり、同時に彼の将来の形になりつつあって。旭希は本気でピアニストを目指すようになったのだ。
 しかしそのピアニストを諦める、と炯に話したのは、高校卒業を控えた寒い教室。二人だけの冷たく広い空間で、ぽつりと零した旭希の言葉に、彼はまるで自分の夢を否定されたような、絶望的な顔をした。
 ……いつも飄々としている彼からは、想像もつかないような表情だった。

 ――理由は?!どうして急にそんなこと!音大受かったんだろ?!

 詰め寄りはしたが、炯にはちゃんと理由がわかっていたはずだ。
 旭希の母が、そのひと月前に他界していた。旭希は、母子家庭だった。

 彼女は命をなくすまでずっと、愛人としての立場を貫いていた。卑屈になることなく、ただ結婚できないだけだと言い放ち、最期まで心底父を愛していた。
 心の強い母を、旭希はとても尊敬していたけど。だからこそ、どうしても時折顔を合わせるだけの父が、許せなかった。
 自分のところへ来いと言った彼に、絶対に嫌だと言い張った。

 頼れる者のなくなった旭希が望むには、音楽の道は金がかかりすぎる。お前だってわかっているんだろうと、淡々と話す旭希に何かを言いかけた炯は、結局言葉にはせず、口を噤んだ。
 認知はされていたし、生活の面倒も見てもらっていたが、旭希が父を嫌う理由が他にもあるのを、炯は知っている。

 旭希の父は、極道の世界に生きている。佐久間組組長、それが父の肩書きだ。旭希には到底理解できない世界。
 ヤクザの息子どころか、ヤクザの愛人の息子。佐久間の父の息子に生まれて、いい思いをしたことなど、一度もない。母があれほどまで惚れていたのなら仕方がないとも思っていたが、自分のこととなれば別だ。
 父親がどうというよりも、父親の金自体を旭希が嫌っていることは、誰よりも炯が知っていた。
 どんな理由であろうと、父に頼れなどということを、炯に言えるはずなどない。

 描いていた夢を諦めるのは、旭希にとっても簡単なことではなかったけど。父に縋るくらいなら、夢を諦める方が簡単なことだ。
 炯の言葉を聞くまでもなくそう言って、顔を上げたとき。旭希は、炯が悔しそうに涙を流しているのを見て、心底驚いた。

 ――なんでお前が泣くんだよ。
 ――仕方ないだろ。旭希が泣かないんだからっ。
 ――理由になってないって…


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