[Novel:07] -P:03-
――バカだな君は!くだらないプライドと、夢を天秤にかけるなんて。不器用にもほどがある!
――そんなこと言われてもな。
――この手が二度と音を奏でないなんてことは言わないだろうな?そんなこと、僕が許さないよ。
――だから、なんでお前が許さないんだよ…
唖然として。ワガママな炯の言い分にうろたえた旭希は「うるさい!」と一蹴された。
旭希の手を握り締め、炯がいつまでも泣き止まないから。
しだいに早くなる鼓動を持て余した旭希は、いつまでも、いつだって、炯のためだけにピアノを弾き続けると約束したのだ。
普段けして泣いたりしない炯が、旭希のために泣いているという、甘い陶酔。
彼の柔らかな心のそばにいたいなら、一生自分の気持ちを伝えてはいけないのだという、痛いくらいの絶望。
二律背反の感情に苛まれながら、旭希はずっときれいな涙が落ちていくのを見ていた。
同じ大学に進学した炯は、旭希と違って舞台人という自分の夢を、着実に形作っていった。仲間を見つけ、舞台を作り上げるという作業に没頭していく。
二階堂炯という容姿や才能が作り上げたブランドをいかんなく利用し、確実なステップアップを繰り返す。炯を脚本、演出家として立ち上げた劇団は、みるみる成長し、世間に認められていった。
そばで見届けることを誓った旭希が、彼の結婚話を聞かされたのは、まだ大学に在学していた夏のこと。
炯に美しい恋人がいるのは知っていた。頭が良く、はきはき話す彼女は炯に紹介され、旭希も何度か話したことのある人だった。
彼女と付き合いだした頃の炯は、見ている方が恥ずかしくなるくらいに有頂天で、旭希はそんな炯から目をそむけるように、手当たり次第にいろんな女性と関係を持っていたけど。
彼が「プロポーズされたんだよ」と告白したとき。予想しなかったわけではないのに、旭希は炯を殺してしまいたいと感じるほどの暗い感情に押し潰されそうになっていた。
ふわふわと浮かれたように話す炯。
結婚式で旭希にピアノを弾いて欲しいと言い出した炯。
誰よりも幸せそうで、誰よりも残酷な人。
旭希はあの時、一度だけ熱を持った手で炯に触れた。このまま抱いて、抑え続けた熱で彼を貫いて、自分の味わっている痛みを彼にも強要してやりたかった。いや、そうするつもりで炯を抱き締め、押し倒したのに。
彼は、深刻な顔で旭希の頬に触れたのだ。
――なんか、あったか?何がそんなに君を傷つけてるの。僕に出来ることがある?なあ、旭希?
誰よりも鈍感で、誰よりも優しい人。
炯の胸に縋って泣き叫ぶ旭希の髪を、炯はずっと撫でていた。
お前も傷ついてしまえと叫ぶ旭希に、いいよ、と答えた炯の言葉は本気だった。旭希がそれで救われるなら、自分くらいいくらでも傷つければいいと言って。
ああ、どうして旭希に炯を傷つけることなんか、できるだろう?これほど愛しい人に、なぜ暗いだけの未来なんか押し付けられる。
情けないほど泣き喚いた暑い夜が明けたとき、旭希は一人、もう二度と炯を傷つけないことを誓った。どんなに辛くても、全ての醜い感情を飲み干す覚悟を決めたのだ。
炯の結婚式では、周囲が聞き惚れるほどのピアノを披露してやった。
彼に子供が出来たときも、名前に悩む炯の隣で、ずっと話を聞いてやった。
柔らかな表情を浮かべ、あらゆる動揺を覆い隠した。
ただ静かに、炯だけを見つめて。
誰よりも炯のそばにいることだけ、自分に架して。
仕事に疲れ果てた炯が、愛していたはずの妻と、幼い愛娘を置いて家を出たときも。彼の頭を撫で、優しいピアノを聞かせてやるのは、旭希の役目だった。
それでいい、と自分に言い聞かせたのだ。
旭希は誰よりも、炯を知っている。誰よりも炯を愛していることだけは、自信を持って言える。
脚本家として名を挙げ、世間ではクールビューティーなどともてはやされている炯だったが、実のところ、旭希の前では面白いくらいにぐだぐだだった。
抱えきれない問題に直面するたび、旭希に泣きついて酔っ払い、ピアノをせがんで眠りにつく。