[Novel:07] -P:04-
炯のこんな姿、知っているのは旭希だけなのだ。そうやって思えば、一向になくならない熱い想いを身のうちに沈め、炯のワガママに振り回されてやることすら、幸せなのだと思っていた。
そう、旭希は。
今夜この夜まで、炯と肌を重ね、甘い言葉を紡ぎあう関係など、自分は完全に諦めることができているのだと、己を過信していた。
随分前に日付は変わっていたが、静かな夜が明ける気配はまだない。
旭希は隣に眠る炯の髪をかき上げてやって、額に口づけた。
出会ってから、もう十年以上。あと数年で、二人が三十になるという、冬。今になってまさか、奇跡のような夜が与えられるなんて。
有頂天になる旭希を、誰が咎められるだろう?身体は疲れて休息を求めるのに、眠ることなど出来そうになかった。この夜が夢だなんてことになったら、旭希はもう二度と自分を抑えられないだろう。
「炯……?」
甘い囁きに、炯は目を覚まそうとしない。身を起こしていた旭希は、肌が触れ合うほど近くに横たわって、炯の身体を抱き寄せた。
「ん…ぁ、ゃ…」
嫌がるように身を震わせるけれど。許してやるつもりはない。
首の下に腕を差し入れ、柔らかい髪を弄びながら頭を引き寄せると、寒かったのか体温に懐いて、炯は細い身体をすり寄せてきた。
じわりと旭希の中に甘いものが広がっていく。
炯がいつものように電話をかけてきたのは、まだ日付が昨日のうち。酔っているのは、甘えた声ですぐにわかった。
――どうしてここに、いてくれいないんですか…?
理不尽な言葉に、溜息をついて今どこにいるんだ?と聞いた。ぐずぐず言いながら炯の上げた名前は、いつも旭希が迎えに行ってやる、馴染みの店。
どうせ車で行っているのだろうと聞けば、そんなことどうでもいいじゃないですか、と旭希に対するには珍しい口調で話していた。だがまあ、酔っ払いの言葉をいちいち真に受けていても仕方ない。運転が出来ないと、旭希を呼び出すのはいつものことだ。
タクシーを呼び、駆けつけてみれば、炯は珍しく正体をなくすほど酔っ払って、カウンターに突っ伏していた。
どれだけ飲んだんだ、と苦笑を漏らした旭希に、顔なじみのマスターが「今日は特に酷かった」と溜息をついていて。どうもすいません、と代わりに謝り、支払いを済ませた。そして炯のビートルにエンジンをかけ、身長を考えれば驚くほど軽い身体を後部座席に押し込むと、代わりに運転をして、旭希の家にたどり着いた。
旭希の家は郊外にある。母と暮らしていた一軒家に、いまだ一人で住んでいるのだ。
深夜でもお構いなしにピアノを聞きたがる炯に付き合おうと思ったら、防音の効いた今の家を手放す気にはなれなかった。
こんなところから友人を呼びつけて運転手をさせるなんて、惚れられている自覚もないくせに随分だとは思うが、そうやって旭希にだけはワガママを言うように仕向けているのは旭希自身なのだから仕方ない。
一時間ほど車を走らせて、車も持っていないのに確保してある自宅の駐車スペースに、ビートルを停める。ぐったりと眠りに落ちている炯を抱き上げる時間だけが、旭希に許された炯に触れていられる時間だ。
どうせ聞いていないのはわかっていたが、とっとと寝ろ、と叱るような声で言ってベッドへ寝かせてやると、炯は珍しく旭希の首に腕を回し、離れていくのをのを嫌がった。
どく、と心臓が鼓動を強くした。これくらいで動揺してどうする、と自分を諌める。
――どうした?
囁いてやると、予想もしなかったくらい執拗に、指の長い手が絡みついてきて。
なにか言いたいことでもあるのだろうかと、引き寄せられるまま顔を近づけた旭希は、いきなり唇を塞がれた。
口の中に、炯がいつも吸っているメンソールの味が広がった。タバコを吸わない旭希には不慣れな、その味こそがただ唯一現実感のある出来事で。
いま自分に起きている出来事を、キスと呼ぶのだと気付いたのは、あとのことだ。
柔らかな唇の感触に、頭が真っ白になった。
どんなに酔っていたとしても、炯は過去一度としてこんな風に、悪ふざけで旭希をからかったことなどない。