[Novel:08] -P:01-
二階堂炯(ニカイドウケイ)は苦しげに呻いて、思いきり息を吐き出した。
覚醒にしたがって、指一本動かすのも辛いようなだるさが現実味を帯びてくる。
うすらぼんやり、自覚のある事態。酒のせいで記憶は曖昧だったが、飲み始めたあたりまでのことは、辛うじて覚えている。
昨日の昼間は次の公演に向けて、スポンサーと打ち合わせがあった。
いつもならただの昼食会で終わるはずの打ち合わせだったが、今回から担当者が変わることもあって、久し振りに会議室を借り、改まった席で顔を合わせたのだ。
現れた血気盛んな若者は、炯の顔を見るなり「企画書読んだんですけどね」と厳しい顔で言い始めて。「もっと面白いことして下さいよ」と、何が言いたいのかわからない言葉を、不満そうに投げつけてきた。それでも懸命に説明を続ける炯の話を、何ひとつ聞き入れないまま彼は「出資を下りてもいいんですよ!」と。脅すような台詞を吐き出したのだ。
下りるも何もすでに契約は交わされていたし、何より今まで一度として損をさせていないキャリアがある。初めて担当についた若造一人が何を言おうと、最終的に契約破棄などという事態にならないのは、充分わかっていた。
ただ、わかっていたからといって、気分のいい話でないことは確かだ。
今日はこれくらいにしておきましょう、と炯が席を立った瞬間、担当の若造は驚き慌て出して。
待って下さい、と言い縋る彼を振り返った炯は「君の好きにしなさいよ。公演をやめるなり、他の劇団を探すなり。ご自由に」と言い捨て、笑ってやった。
よく笑っていられたものだと思う。殴り飛ばしてしまいたいほど、キレていたのに。
苛立ちを隠せない炯に「さっきのは酷すぎる、あれを堪えたんですから、二階堂さんは凄いです」と、同行していたスタッフ達が、必死にフォローの言葉を口にする。心配そうな彼らのそばでは、どうにか自分を宥め、穏やかな表情をしているしかない。
公演どうしようか?と頭を痛くしていた炯の元に、電話がかかったのは、たった二時間後だ。彼の上司から謝罪してくるという、不愉快極まりない事態。
なんで自分で謝罪しないのかとか、これくらいのことで上司に泣きついてどうするとか、聞いた言葉を二時間でなかったことに出来るほど記憶力は悪くないんだとか、たくさん考えたけど。電話を切って振り返った炯は「変更ナシでオッケーだって」と、固唾を飲んで見守るスタッフに微笑んだ。
やっと役者たちに、バイトを辞めても生活できるだけのものを、払えるようになったのだ。炯のワガママで、仲間に迷惑をかけるわけにはいかない。
さすがにスポンサーサイドが、謝罪の為に設けさせてくれと言ってきた席は断り、スタッフたちとも別れたなら、あと炯に出来ることなんて、ヤケ酒を飲むことくらいだ。
マズい酒に溺れ、冬の寒さに身を震わせる。そうしたら、無性に淋しくなった。
最初は一番話をわかってくれそうな、劇団の仲間たちを思い浮かべたけど。彼らに話せば、スポンサーの意向なんか気にするなと、好きにすればいいよ、と言ってくれるのがわかりきっていた。……それでは、本末転倒だ。
次に大親友の顔が浮かんで、こんなときこそ旭希(アサキ)に甘え、彼の優しいピアノを聞きながら眠ってしまいたかったけど。その時は、一方的に楽しくもない愚痴を聞かせて平気なほど、酔ってはいなかった。
大体、深夜2時に呼び出して、翌朝9時に赤坂へ送ってもらったのだって、今週の話だ。遅番だから大丈夫だと旭希は笑って言ってくれたが、日勤の公務員にこれ以上迷惑は掛けられない。いや、またそのうち同じことをしてしまうのだろうが、今夜は駄目だと、自分に言い聞かせた。
最終的に思い浮かんだのは、唯一余計なことを聞かずに……と、いうより。炯の都合などお構いなしに、嫌なことを忘れさせてくれる人。
酔っていたんだと思う。
いや、酔っていたせいだと思いたい。
炯は、めったにかけない番号に電話して、会いたいと彼を誘っていた。
最初、彼は仕事があると断ってきたけど。身体がこれだけだるいということは、結局応じてくれたのだろう。いま香港にいるのだから帰れるわけないと言った彼が、何故ここにいるかなんてわからない。最後に電話をかけたバーのあたりからは、もう覚えていないかった。
得体の知れない人だから、なにか超法規的な手段でも取ったんだと思えば、納得できてしまう。
目を開ける気力もないまま、寝返りを打った。自分で招いたこととはいえ、何回くらいしたんだろうと考えて、炯はうんざりする。
やめて欲しいと嘆願して、聞き届けられたことなど一度もない。それでも彼に寄りかかるのは、同じ舞台に関わっている仲間さえも知らない、炯の弱さだ。
本当に、吐き気がするほど。
後先考えず、快楽に溺れてしまう自分に、毎度のことながら嫌気が差す。