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[Novel:08] -P:03-


「だから…悪かったよ。まさか旭希だとは思わなかったんだ…言い訳にしかならないけど、僕だって別に、誰かれなく誘うわけじゃないし…」
 ぎりっと怒りを噛みしめて。旭希は炯の細い顎を掴み上げた。
「タカヤってのは、誰なんだ」
「あさ、き…」
「そうだろうさ。お前が男を好きじゃないなんてこと、オレが一番知ってる。昨日だってお前は、そいつの名前しか呼ばなかった!お前が呼んでたのは誰だ!オレの腕ん中で、誰を呼んでたんだ!」
「痛いって、旭希!」
 旭希に突き放され、咳き込む炯には旭希の激昂が理解できない。

 長い間、友人として炯を支えていてくれた旭希には、信じられない事態だったろう。酔った勢いでやらかしたには、謝っても許されない行為だったとわかっている。
 でも旭希は、炯のうんざりするほど情けない一面なんか、とうに知っていたはずだ。
 今までどんな迷惑をかけても、一度としてこれほど激しい怒りを、向けられたことがない。
 炯には旭希の厳しい言葉が、自分を通り抜けているような気がして仕方なかった。
 もちろん、炯自身にも腹を立てているのだろうけど。旭希は炯の後ろにいる、会ったこともないはずの「タカヤ」こそを睨んでいる。
 自分の知らない男に恐ろしいくらいの憎しみを向ける旭希が、寝起きの混乱した頭では理解できない。
「付き合って、いるのか?」
 僅かに旭希の声が震えている。痛いほど掴まれた顎をさすって、炯は苦笑いを浮かべた。
「そんな、きれいな話じゃないよ」
「だったら何なんだ」
「なんていうか…何だろう。愛人?なのかな」
「お前…!」
「いや、あの。別にお金貰ったりしてるわけじゃないよ?」
「当たり前だ!」
 おろおろと言い訳をする炯は、怒りに握り締められた旭希の拳を見つめて、溜息をついた。
「とりあえず、服着させてくれない?ちゃんと話すから。…こんなカッコで話すことでもないでしょ」
 頼むよ、と手を合わせる炯に、旭希はバスタオルと、着替えを投げつけた。派手な音を立てて部屋を出て行く背中を見つめ、炯は少しだけ笑う。
 こんなことになってもまだ、旭希は炯を気遣ってくれる。手元には、いつ脱ぎ散らかして帰ったかも覚えていない、炯の服。きれいに洗って畳んでくれたのは旭希だ。
 それが、当然のようになっていた。
 甘やかしてくれるのを、当たり前のように享受していた。
 ……今日を限りに見限られるかもしれないと思うと、じくりと胸が痛んだ。


 バスを使っている間、炯は鏡に映る自分を不思議な思いで見ていた。情けないほどに細く白い身体には、いたるところに赤い痣が出来ている。考えるまでもなくそれは、旭希につけられたキスマークなのだけど。
 疑問しか、浮かばない。これが義理で抱かれた痕だろうか?まるで、そう。
 旭希と勘違いして呼んでしまった「彼」が、執拗なほど自分に烙印を押したような、情事の名残り。
 ――旭希…だよ、ね?
 他に思い当たることもないし。でもこれが、誘ったから抱いてやった、という状態だろうか?


 旭希の用意してくれていた服に手を通し、身支度を整えた炯は、疑問に答えの出せないままリビングへ戻った。机の上には炯のメガネが置かれ、隣で淹れたばかりのコーヒーが湯気をたてている。温かさに、今日ばかりは泣きそうになって。
 どんなに腹を立てていても、けして炯への気遣いを忘れない旭希。
 どうにか許してもらえないだろうかと、炯は視線を上げた。
「えーっと…ありがとう」
 おとなしくソファーに座って、上目遣いに見上げるけど。旭希が怒りを納めているはずもない。
「あの…」
「話すんだろ」
「ああ、うん。まあ」
「さっさと言えよ」
「……はい」
 マグカップに口をつけ、馴染みのある苦い味を飲み込んだ炯は、聞いたこともないような旭希の冷たい言葉に、無駄な言い訳を諦めた。細いフレームのメガネをゆっくり開いて、頭の中を整理しながらかける。
「なんていうか…あの人とは、旭希が思ってるような、甘い感じの話じゃないんだよ。ええと、何年前かな。離婚した直後、なんだけど」
 ちらりと旭希を見た炯は、怒りを抑えきれない表情にまた下を向いてしまう。旭希は新しいワードにぎゅうっと眉を寄せていた。
 何年も前から。
 旭希の知らないところで、もう何年も。炯は男を受け入れていたのだ。


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