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[Novel:08] -P:04-


「旭希も知ってるようにあの頃の僕は、そうとう情けないことになっててさ。毎日のように飲み歩いてたし、毎日帰らないまま街中ふらついてたじゃない?それでまあ、目をつけられたっていうか」
「向こうから誘ってきたのか」
「…まあ。そうなるかな。馬鹿だとは思うけど、ベッドに押し倒されるまで気付かなくてさ。気付いたときには両手縛られてたし。逃げられなくて…」
 ガンッと音を立てて、旭希は手にしていたカップを置いた。
 待ってくれ。それは、強姦というんじゃないか?どうしてそんなことに。
 一瞬、不愉快そうな色を見せた旭希の視線に気付いて、炯は慌てたように言い募る。
「だって、まさかそんなことになるとは思わないだろ。僕みたいな…ひょろいことは認めるけど、上背もあって歳だってそんな若いわけじゃないのに、男の、しかもセックスの対象になるなんて、思わないでしょ」
「…バカなことを…」
 旭希の大きな手が、絶望するように目を塞ぐ。
 自覚のない炯が、いっそ憎かった。ずっとそばにいる自分が、いままでどんな目で彼を見ていたのか、知らないとは思っていたが。まったく自分の魅力に気づいていないなんて!
「そりゃ…バカだとは思うけど。実際、最初は恐くて声も出なかったし、痛くて意識飛ばしたし。何かの間違いだとも思ってさ…」
 恐かったのは、本当だ。抵抗を押さえつけられ、男の冷たい目で見下ろされていると、自分が何か、か弱い獲物にでもなった気がした。慣れた男の手で無理矢理絶頂に追い上げられたときも、吐き気がするほど悔しかったのだ。
「でもなんか、その時ね。さんざん喚き散らして、大声で叫んだせいかな…どっかしら気持ちが軽くなったっていうか…あのころ離婚のことばっかりで埋まってた頭の中が、一瞬なんだけど真っ白になったんだよ。しかも終わってからはそれまでのことが信じられないくらい、丁寧に身体洗ってもらったりしてて。そのうち落ち着いてきたら…僕としてもこう…まあいいか、とか思ったりして」
「お前!」
「いや、マズかったとは思ってるよ!誤魔化されたのも自覚してる!でも終わったことは仕方ないし、子供が出来るわけでもないなら、犬に噛まれたみたいなもんかと思ってさ…いい歳して、女の子みたいに引きずるのもどうかな、とか…思ったから…」
 旭希は爪が食い込むほど、手を握り締めた。
 炯を勝手な幻想で、きれいな存在にしていたわけじゃない。結婚する前も、離婚したあとも、それなりに相手がいたことは知っている。
 なにより淋しがり屋の炯が、人肌に弱いこともわかっていたけど。だからといって、男に抱かれたことを、そんなにあっさり受け入れてしまえるなんて。
 いままで懸命に熱い気持ちを飲み干していた旭希は、自分を否定されたような気になっていた。
「…タカヤってのは、その時の男なのか?」
「うん…」
「続いてるって事なんだな?」
「う…まあ。そう、だね」
「なんで、そんな男と今まで!」
「…なんでっていうか…」
「何だよ!」
「だって、理由なんかもう、本気でくだらないんだよ…言ったら怒るだろ?」
「いまさらだろ!」
 立ち上がる旭希を見上げ、炯はカップを置くと拗ねるようにソファーの上で膝を抱えた。
 いまさらだ、確かに。怒るだろうも何も、もう旭希は怒っている。
 言いにくそうにしていた炯は、溜息をついて顔を上げた。
「向こうが、知ってたんだよ。僕のこと」
「な、に…?」
「朝になってから、AZ(アズ)の二階堂炯だろう、って言われた」
 AZ。当時もう名を上げていた、炯の劇団だ。
「奥さんのことも、娘の…まどかのことも知っててさ。当時のスポンサーのことも知られてて。…お前が拒否すれば彼らの安全は保証はしない、とか。そんな風に言われたら、断れないし」
 ぼそぼそ呟く炯を、旭希は呆然と見つめていた。
「なんで、言わなかったんだ…」
 脅迫されていたなんて。
「うん…最初はどうにかしないと、って思ってたし、旭希に相談することも考えてたんだけど。相談しようと思ったら、されたことも言わないといけないだろ?…旭希には知られたくないかも、なんて思ったりして…」
「言えば良かっただろ!オレを信じなかったのか?!」
 ショックを受けこそすれ、旭希が炯を拒絶することなどない。たとえ人を殺したのだと告白されたって、旭希が炯のそばを離れることなんか、ありえないのに。
「信じてたよ…旭希に言えば、絶対力になってくれると思ってた」
 炯だって、旭希に話すことを考えないわけでもなかった。
 自分がされたことをちゃんと言えば、旭希が憎むのは相手であって、けして炯を軽蔑したりはしなかっただろう。それはわかってたけど。


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