[Novel:08] -P:06-
「待ってくれ、何を言ってる…?」
愛している?旭希が、炯を?
炯の記憶に、遠い日のワンシーンが蘇った。
結婚すると伝えた日、何かに傷ついていた旭希は炯を抱きすくめて泣いていた。お前も傷ついてしまえばいいと、悲鳴のように叫んだ。あの日の理由を、炯は聞けないままだったけど。
もしかして、あの時も?
本当に、ずっと?
「あ…さ、き……」
「炯」
「本当、なの…か?ずっと?」
「生まれて今まで。オレが愛したのは、お前だけだ」
弾かれたように踵を返し、炯は旭希の家を飛び出した。混乱した頭に、旭希の声だけが何度もリピートされる。
炯は僅かの疑問も抱かなかった。旭希の本気を、少しも疑うことが出来ない。
十数年という記憶が蘇る。
どうして今まで気付かなかったのか、その方が不思議だ。
出てくる直前に掴んだキーを挿して、逃げるように車を走らせた。よく考えることも出来ずに向かっている先が、元凶となった人物の元だと気付いたのは着いた後だった。
炯は、自分が知らずに呼んでしまった「タカヤ」という人物のことを、実はよく知らない。名前と肩書き……それに住んでいるところぐらいは知っている。でもここが本当に彼の自宅なのかは、いつも疑問に思うところだ。
タカヤというのは彼の姓。
鷹谷。鷹谷慎二(タカヤシンジ)。
社長業だと聞いているが、なにか想像もつかないような、危ない仕事をしているのは、教えられなくてもわかっていた。
炯を射すくめるような視線や、圧倒的な存在感のある容姿。一見すれば肩書きどおりの実業家に見えるが、あの威圧的な態度は絶対カタギの人間じゃない。
逃げ込んだ鷹谷のマンションで、炯は一人整理のつかない感情と戦っている。
冷静を取り戻したくて、常に車に積んである仕事を広げてみても、手につかなかった。
旭希が自分を、友人としてではなくもっと熱い感情で見つめ続けていたことを知って、なんだかやっと旭希の本当の姿を見た気がした。
信じられない、と薄っぺらに驚いてしまうには、思い当たることがいくつもある。
そうして、薄情な自分を思い知るのだ。
見当違いなことで悩んでいるのはよくわかっていたが、もう何年くらい自分が旭希を傷つけ続けているのだろうと思うと。切なく眉を寄せていた彼の顔ばかりが浮かんで、少しも考えはまとまらなかった。
結婚したとき。
子供が生まれたとき。
炯と向き合う旭希は、いつも祝福してくれて、笑ってくれていた。
世間で知られるような、落ち着き払った自分なんて、ただの仮面だと知っている人。どんな情けない姿を見ても、炯を見捨てなかった旭希。
彼は、自分だけを見て、自分だけを愛してくれていたからこそ、いつだって炯が幸せであるように、そこにいてくれたのだ。
「ワガママだなあ…僕は」
ぼそぼそ呟いて、誰もいない他人の部屋で暗く落ち込む。
こんなことになってもなお、旭希の手を離したくなくて、そればかりを考える自分はなんて滑稽なんだろう。
原稿の仕上がりが早いことで定評のある炯だが、執筆中は誰にも見せられないくらい、いつもいつも荒れていた。
頭の中にあるものを上手く表現できなくて、苛立つとすぐに食事も睡眠も摂らなくなる。それが限界になると今度は、呷るように酒を飲む。
最悪な体調で飲むからすぐに酔っ払い、旭希に電話をかけるのだ。
泣き言ばかり聞かせる炯を家につれて帰ってくれる旭希は、炯が眠りにつくまでピアノを聞かせてくれていた。
いつでも、いつまでも。
かつて約束したように、炯の為にだけ。
旭希のピアノは、なによりも炯を落ち着かせてくれる。忘れがちな優しいものを、思い出させてくれる。
他の誰でもダメなのだ。
旭希の弾く、穏やかな音色でないと、炯のざらついた心は休まらない。
音楽には大して造詣が深いほうでもないし、舞台の音楽では好んでロックを使う炯だが、ピアノだけなら絶対に旭希と他の奏者を聞き分ける自信があった。
いつか旭希のピアノを使って、観客を幸せで包み込むような舞台を作るのは、炯の夢の一つ。
いつもの活劇めいた派手な舞台じゃなくて。最小限の台詞と、最小限の役者で、出来るだけ小さな劇場を使いたい。