[Novel:08] -P:07-
足を運んでくれた人々が劇場をあとにするとき、いつも旭希が炯に与えてくれるような、優しい気持ちを持ち帰って貰えたら。
舞台作りに入るとき、いつも炯はその夢を思い出している。どんな舞台をやるときも、必ず最初に、心を誓いの場へ戻す。
クリエイターとしての二階堂炯にとって、旭希は絶対に外せないファクターだ。それは、誰より炯自身が知っている。
いま、旭希をなくしたら。
炯は二度と、ペンを執れなくなるだろう。
ぼんやりと携帯電話を取り出した。
……旭希に連絡を取ろうと思ったわけじゃなかったけど。なにを考えるまでもなく開いて、途端に耳まで赤くなる。
「ほんっと…好きだな。こういうバカなこと!」
表示された画像を、メールごと消そうとして。炯はその時初めて、鷹谷の送ってきたメッセージを目に手を止めた。もちろん、すぐに消してしまったけど。
――いい加減 落ちついたか
淋しかったら使え
どうしてわかってしまうんだろう?ずっと自分を見ていた旭希ではなく、この男に。
淋しいと囁き続けた言葉が、苛つく炯のサインだなんてこと。
今までのメールを見返して、炯はなんとも言えない気持ちのまま携帯電話を閉じ、ダイニングテーブルの上に放り出した。
鷹谷は旭希と同じくらい、炯の情けない姿を知っている人だ。過去のメールに並んでいた言葉は、どれも労わりがなくて、優しさも慰めもない。いつだって突き放され、詰られて。
なのにやっぱり、いつだって。
彼がくれるのは炯の欲しいもの。
ここへ来い。
とっとと寝てしまえ。
戯言は朝になってから聞いてやる。
旭希に連絡を取るのが躊躇われるくらい辛いとき、炯は鷹谷と会う。
自分たちを繋ぐのは、身体だけだと思っているのに、鷹谷を求めて悲鳴を上げるのは、いつも心が先だった。
ぐずぐず悩む自分を引き裂いて、追いつめて欲しいと願う。願ってるのは、快楽に慣らされた身体ではなくて。
なんでもかんでも一人で抱え込み、壊れる直前まで吐き出せない炯。鷹谷を求めるのはいつだって、悪いクセを治せない心の方。
壊れてしまえ、と残酷に告げる鷹谷は、炯にどんな自由も許さない。
壊れることも、救われることも。
炯の自由にさせてくれない。
鷹谷はいつも、炯を翻弄するだけだ。迷宮に迷い込んだ炯の視線を自分に向けさせ、そのときだけは全てを取り上げてくれる。
どんなに目をそらしていても、炯はとっくに気付いている。冷たい態度で、それでも手を差し伸べてくれる鷹谷に、依存している自分の弱さ。
鷹谷にとって、無防備に寄りかかる自分はどういう存在なんだろうと。最近よく考えていた。
旭希が思ってくれているような、温かい気持ちで鷹谷が自分を見てくれているなどと、奢る気持ちはない。
いつも隣にいてくれる旭希と、常に上から炯を見下ろしている鷹谷。
支えてくれる人と、縋らせてくれる人。
どちらの手も離せないまま、炯は自分の都合だけで二人を振り回している。二人に支えられ、安らぎを与えられて、なんとか保った自分を全てを注ぎ込み、舞台を作り上げる。そうして、脚本家二階堂炯の名前だけが大きくなっていく。
今だって、こうして。
鷹谷が相手をしてくれない酔ったら旭希に泣きつき、旭希がわからないと逃げ込む先は鷹谷のマンション。
どこまで自分は情けないんだと、苦々しく吐き捨てた。
勝手に鷹谷のワインセラーを開け、適当に取り出したワインを抜いた炯は、相変わらずな自分にほとほと愛想が尽きていた。
グラスを傾けながら、ボトルを手にとって、一応銘柄を確認する。
このワインセラーときたら、一本数百万もする高価なものが平然と入っているのだから。
「…珍しい。こんな安物」
三千円するかどうか、迷うようなワイン。
嫌な予感がして、新しいタバコを箱から抜き取った炯は、火をつけながらワインセラーに戻った。
一番上の棚にだけ、飲みやすいだけが売りの、安物が並んでいる。
炯が適当に飲んでしまうとき、何も考えずに一番上のものを持っていくのだと、持ち主は知っているのだ。
扉を閉め、背中をつけて蹲る。ごちっと後頭部をぶつけた。まるで不良少年のように、拗ねた表情でタバコをふかしてみる。
なにもかも、お見通し。
日本酒の好きな炯が、他の洋酒はともかくとしても、ワインの味だけはさっぱりわからないこと。
それでも飲もうとする炯が、飲みやすいものを選ぶことも。
鷹谷には、なにもかも知られている。