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[Novel:10] -P:01-


 炯(ケイ)が旭希(アサキ)を選んでから、二ヶ月ほどの時間が経っていた。あの日から炯は旭希の家で暮らしている。
 ちょうど時間的にも余裕のある時期だったのでいっそのことと、離婚以来住みついていた仕事部屋に置いてあった生活用具も、旭希の家へ運んでしまった。元より執筆の為に借りていたマンショだったので、今は完全に仕事だけの部屋に戻っている。旭希の家には旭希が望んだ通り、炯のための家具が増えていた。

 毎日はとても穏やかで、静かだ。
 早番と遅番のある旭希の仕事に、自由業の炯は可能な限り生活をあわせていた。といってもまあ、早番の日はベッドの中から「いってらっしゃい」と送るだけだったし、遅番の日だってソファーにごろごろ懐きながら手を振っているだけ。
 それでも。気が向いたように唇を重ね、溢れる想いを言葉にして、月が昇る時間に熱を分け合う毎日。
 旭希はこの上なく幸せだったし、炯も満足しているのか、時々仕事へ行きたくないと駄々を捏ねている。
 甘やかしてもらえるだけ甘える炯の性格は、変わらないけど。「いま僕が甘えるのは旭希だけなんだから、精一杯甘やかしなさい」と、平然としたものだ。


「ただいま」
 リビングに姿を現した旭希を見て、炯はあれ?と怪訝な顔になった。
「おかえり?」
 今はまだ、午後二時。旭希が帰ってくるような時間じゃない。そもそも今日、遅番だった彼が家を出たのはほんの三時間前。
 すたすた近づいてくる旭希の、触れるだけのキスを受け取って。炯は首を傾げた。
「早くない?」
「早いよ。行ったら急に、休み代わってくれって言われた」
「なにそれ…」
「来週、どうしても抜けられない用が出来たとかでさ。強引に交代させられた」
 女というのは、なぜこうもワガママなのか。職場に着いた途端、手を合わせ拝み倒されて。高沢(タカザワ)さんしかいないの助けて!と言い出した同僚に、知ったことじゃないと思ったのだが。普段はとっつきにくいと声をかけてこない同僚が、意を決して頼むのだから。結局、むげには出来なくて。
 経緯を聞いていた炯は、可笑しそうに笑っている。
「やっさしーなあ」
「仕方ないだろ、職場の付き合いだ」
「ふうん?旭希は僕にだけ優しいのかと思ってたけど?」
 旭希は細い腰に手を回し、上目遣いで微笑む炯のメガネを取り上げた。
「間違ってないけどな」
 顎を捕らえ、唇を合わせて。甘えるように旭希の唇を舐める炯の舌を、受け入れ吸い上げてやった。何度も深く重なるキスに、炯の腕が這い上がり、首に回される。ちゅっと音を立てて離した、炯の濡れた唇。名残惜しくて何度か啄ばんでいた旭希は、ふと炯の格好を見下ろした。
「出かけるのか?」
 コートを羽織っているから。手渡してやったメガネを受け取った炯は、にこりと笑う。
「うん。旭希が遅いって聞いてたから、散歩ついでに何か食いに行こうかと思ってた」
 ふいっと離れる炯が、まだブルゾンを着たままの旭希の手を引っ張って。
「炯?」
「一緒に行こうよ。案内してあげるから」
「案内ってお前な。オレが何年ここに住んでると思ってんだ」
「そんなこと言ってもねえ。絶対に僕の方が詳しい自信があるんだけどな〜」
 ほらほら行くよ〜。と。炯が嬉しそうに歩き出すから。旭希も肩を竦めてついていく。

 旭希の家は、郊外の住宅街にある。中学が同じだった炯は、駅の反対側に住んでいた。校区は同じだが、炯はこっち側にあまり詳しくないはず。本格的に住み始めて、一ヶ月と少ししか経っていない。
 山の手といわれている地域だが、単に山が近く田舎なだけだ。緑が多い道を、ゆっくりした歩調で歩いている炯は、駅のある市街地に背を向け、古い住宅地への角を曲がった。
「おい、どこ行くんだよ?」
 飯を食うんじゃないのかと、足を止める旭希を振り返って。炯はほらね、と笑っている。
「旭希なんか、駅と家の往復しかしてないんじゃないの」
「往復っていうか…」
 商店街だってスーパーだって、方向は駅側だ。
「つまんないじゃない。ああいう、人の多いとこ。散歩なら、入り組んだ道のほうが楽しいでしょ」
「…お前もしかして、毎日この辺うろついてんのか?」
「毎日じゃないよ〜。でもまあ、一日中歩いてることもあるかな」
 その細い身体のどこにそんな体力があるんだと、旭希は呆れてしまう。自分が仕事に行っている間の炯は、ひたすら引きこもって書き物の仕事を片付けているのかと思っていたのだ。

 細い道を何度か曲がって。迷いもなく前を歩く炯が足を止めたのは、何の変哲もない駐車場。表情を和らげて見つめている視線の先を探せば、白いセダンのボンネットにごろりと寝転んだ二匹の猫が見える。


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