[Novel:10] -P:02-
あれを見ているのか?と、隣に並んだ旭希が炯の顔を覗き込もうとしたとき。炯はきょとんとした顔で首を傾げた。
「どうした?」
「ぶれんどがいない」
「…ブレンド?」
「そ。あそこで丸くなってる茶色い子がお兄さんのきゃらめる。横で無防備に腹晒してる黄色い子が、妹のはちみつ」
「…誰かの飼い猫か?」
「いや?野良だよ」
さも当然のように。
「ご近所さんたちが、そう呼んでんの。三匹仲のいい兄弟なんだけどさ〜、遺伝子完全に無視して、見事にみんな毛色がバラバラなんだよ。母親のみるくは白いし、父親のここあはこげ茶なのに」
まるで旧知の仲のように話すから。呆然と聞いていた旭希は、歩き出した炯に置いて行かれそうになる。
「おい、待てよ」
慌てて追いかけ、再び隣に並ぶと、炯は旭希の顔を見上げて楽しげに笑った。
「今日は、いい日になりそうな予感がする」
「予感?」
「そ。…いつか旭希を連れて行きたいと思ってたところが、たくさんあるんだ。ぼーっとしてたら置いてくよ」
「置いてくってお前なあ…」
旭希を連れて行きたいというくせに、置いて行っては元も子もないだろうに。
ゆるやかな歩調を変えることなく歩く炯は、猫の兄妹を見つけた駐車場から先、二つ向こうの角を曲がった。そしてもう一度角を曲がる。そこに突然現れた景色を見て、旭希は驚きを隠せない。
「知らなかっただろ」
「…知らなかった」
静かな住宅街からは、完全に浮き上がっている真っ白い建物。繊細な文字の看板が上がっていて、店中のショーケースがきらびやかなスイーツを抱えていた。
「こんなところにケーキ屋なんかあったか?」
「去年出来たんだってさ」
「へえ…」
「旭希、ここのケーキ食べてるよ」
「…いつだ?」
「先週だったかな。稽古場に差し入れた余り、持って帰ってきただろ。覚えてない?」
「覚えてる」
即答した。
旭希の記憶に刻まれている、素晴しい美しさと味のミルフィーユ。甘いものが好きな旭希のために、炯が持って帰ってくれたもの。その完成度の高さに、きっと都内の有名なパティスリーで買ったのだろうと思っていた。
「中で何か食べようか?」
「食べようかって。お前、食わないだろ?」
炯は甘いものが大の苦手だ。なのに溜息を吐きつつ、すたすたと店に近づいていく。
「それがさあ。ここのパティシエ、滝沢(タキザワ)っていうんだけど。僕にも食べられるケーキ作るって聞かないんだよ」
プライドが傷つくんだってさ、と。ちょっと困ったように言って、店内に入った炯はショーケースの向こうに立っていた女性と挨拶を交わしている。
「滝沢いる?」
「いますよ〜。なんか自信作らしくて、昨日からずっと二階堂さん待ってるの。てんちょ〜!二階堂さん来ましたよ〜」
呼びかける女性の後ろから、バタバタと顔を出したのは四十絡みの男だ。
「来たなテメー!」
「そういうさあ。ケーキ屋に似合わない言葉、どうにかなんないの?」
「うるせえっ!待ってろ、いま食わしてやるからな!」
確かにパティシエというにはあまりにも似つかわしくない、ワイルドな容姿と荒っぽいドタバタさ加減で、滝沢と呼ばれた男は奥へ引っ込んでいく。二人の遣り取りに思わず頬を緩ませていた旭希の肩を、炯がぽん、と叩いた。
「あそこの奥だけ、タバコ吸っていいんだよ。先座ってるから、適当に選んできて。こいつは僕と違って、甘いの平気だからさ」
最後の言葉は、興味深そうに旭希を見ていた女性に。
さっきまでそこにいた滝沢氏が作ったとは思えないほど、きらびやかなケーキが並ぶショーケース。うっとり眺める甘党の旭希に、彼女は「どれも美味しいんですよ」と迷わせるようなことを言って、微笑んだ。
一時間ほどケーキ屋で過ごした二人が出てきたとき、炯はその手にシュークリームの入った袋を持っていた。店を出る間際、滝沢氏が当たり前のように理由も言わず、炯に渡したものだ。
ちなみに炯のために作られたガトーショコラは「苦っ。甘いのダメだからってコレはないんじゃないの」と一刀両断されていた。再戦を誓う滝沢氏は「俺が勝ったらこの店は全席禁煙って約束でな」と旭希に話してくれて。
大体ケーキ屋来てケーキも食わずに、コーヒー飲みながらタバコ吸ってるだけの客ってどうなんだとか、客寄せになるから来店は大歓迎なんだとか。滝沢氏の話す言葉の端々から、二人の仲の良さは旭希にもわかった。だって甘いんだよ、と当たり前のことを言って拗ねていた炯なのに。シュークリーム入りの袋を渡されたときだけは、何も言わなくて。
「それ、どうするんだ?」
どうにも納得がいかず袋を指さして聞く旭希に、炯はにやりと笑った。
「食べたい?」
「そりゃまあ…お前、食べないんだろうし」
さっき店で旭希が食べたタルトオフレーズも、素晴しいものだったので。