[Novel:10] -P:03-
「じゃあ次に行く店で、旭希が僕を困らせないでいてくれたら、分けてもらえるように頼んであげてもいいよ」
「次?」
そして、炯を困らせない?
どういうことかわからずにあとをついて歩く旭希は、もう自分がどこにいるのかわからない。
方向的に自宅がどっちかはわかっているが、炯の歩き方はかなり変則的だった。目的地への遠回りだとわかっていても、何かに気が引かれると角を曲がってしまう。
この花やっと咲いたんだとか、いつも寝ている犬が起きているとか。どれも些細で、きっと旭希だけなら見逃してしまうようなこと。子供が練習をしているのか、ピアノが漏れ聞こえる家のそばでは「聞いてて」と立ち止まっていた。つたない演奏がメロディを崩し、止まってしまう。くすくす笑って歩き出した炯は「いつも同じところで間違っちゃうみたいなんだよね」と、まるで生まれたときから知っている子供を愛でるような言葉。
旭希はなにか、自分の心がゆっくりほどけていくような気がしていた。
炯のことなら、何でも知っていると思っていたけど。旭希が知っているのは「炯は散歩が好きだ」という言葉だけだったのだ。そこで、彼がどんな発見をして、どんな小さなことに心を動かされているか、今日まで知らなかった。
随分寄り道をしながら、三十分ほど歩いてたどり着いた店。次の目的地は、この花屋だったらしい。フローラというやぼったい名前を裏切らないくらい、古い店だ。それでも色とりどりの花が道いっぱいまでを飾って、目を楽しませてくれる。
店先で作業をしていた女性が、炯たちの気配に気付いて顔を上げた。そうして旭希と目が合った瞬間、驚愕に持っていたはさみを取り落としてしまう。
「こんにちは、中野(ナカノ)さん」
「あ…あ、二階堂くん…」
「予告なくてごめんね。でも、約束は守ったでしょ?」
中野さん、と呼ばれた自分達と同年代くらいの女性は、ぎゅうっと店名の入ったエプロンを握り締める。また知り合いか?と旭希が顔を上げたとき、彼女はぼろぼろ泣き出していた。
「ほらほら。こんなところで泣いてたら、何事かと思われるよ」
苦笑した炯に肩を押され、彼女は店の中に入っていく。なにか炯と曰くのある女性なのだろうか?少し不機嫌な顔つきになった旭希が後ろをついていくと、意外に広い店内で、彼女が向いているのは炯ではなく、旭希の方。
「高沢くん…私のこと、覚えてる?」
「…え、オレ?」
うろたえる旭希の視線の先で、店の中央に備えてあったテーブルセットの椅子を引き出し座っていた炯が、楽しげに笑っている。
「ほら、ね?覚えてなかったでしょ。旭希が覚えてるわけないって」
けっこう酷いことを言われながら、旭希は懸命に思い出そうとするけど。中野、という名前と目の前の女性が、なかなか一致しない。
中野は顔を上げた。まだ泣いていたけど、泣いたまま少しだけ笑う。
「小学校のとき、同じクラスだったの。四年生。思い出せない?」
「四年?…中野…」
必死に古い記憶を引きずり起こして。ふと、目の前の彼女を見直した。
「あれ…?もしかして、一度隣の席だったか?確か中学も同じじゃ…」
「あたりまえでしょ。中学が同じじゃなかったら、僕が知るわけないって」
「ああ…じゃあ、なんとなく。ごめん」
正直に言うと、彼女は首を振って。不安そうな顔で炯を振り返っている。心細そうな彼女に、炯は肩を竦めるだけだったけど。
「約束は、守ったよ。絶対に旭希を連れてくるって。僕が約束したのは、そこまででしょ?」
「うん…そうだね」
意を決したように旭希の顔を見つめ、彼女は唇を震わせながら「ごめんなさい」と呟いた。意味がわからない旭希は、ぽかんとしてしまう。
「…は?」
「あの、あのね。高沢くん、四年生のときお父さんのことで、クラスのみんなに…」
「ああ。言わなくてもいいよ。それが?」
ぴしゃりと言葉を遮った旭希に、彼女はびくっと肩を震わせた。まさかそんな怯えるとは思わなくて。旭希は、炯に睨まれてしまう。
――そんな顔されてもな…
父親がヤクザだと知れて、イジメにあったのは思い出して楽しいような過去じゃない。旭希自身はさほど気にしていなかったが、投げつけられた言葉はどれも子供らしい残酷なものだった。あの時は、耳にした母親の方が参ってしまって。
中野は必死な様子で顔を上げている。
「最初のきっかけになったのって、私だったの…覚えてない?」
「中野が?…そう、だったか?」
「私が高沢くんに、お父さんヤクザの組長さんなのって、バカなこと聞いたから…」
少しずつ小さくなる声。
そんな会話、旭希は全く覚えていなかった。どこからバレたんだろうとは思っていたが。
「そう…か?覚えてないけど」
「私、ずっと高沢くんに謝りたかったの。ほんとに…ほんとにごめんね…ごめんなさい」
ぽろぽろ泣きながら。旭希の肩までも背のない彼女が泣くから。どうしていいかわからず、困ってしまう。