[Novel:10] -P:04-
「中野さんね、そのときからずっと旭希に謝りたかったのに、言えなかったんだってさ」
炯は勝手に灰皿を引っ張り出し、タバコに火をつけた。
「…もう二十年近く前の話だろ?」
「そうだよ。だから、彼女の中ではずーっと。二十年そのことが引っかかってんの」
何度も涙を拭いながら、彼女は謝っていた。そんな大事になるとは思わなかったこと。何度も謝ろうとして、でも言えなかったこと。
クラスメイトが騒ぐまで、彼女は自分の言った言葉の意味をよくわかっていなかったのだ。
旭希は困り果て、仕方なく彼女の肩をポンと軽く叩いた。
「わかったよ」
「高沢くん…」
「あの頃、周りが騒いでうっとうしいと思ってたのは確かだけどな。父親がヤクザなのは事実だから、大して気にはしてなかった」
「でも…」
「騒いでた連中もすぐにおさまったし、中学に入ってからは、わざわざ言うヤツもいなくなってただろ。もう気にすんな。オレも気にしないから」
いつまでも泣かれる方が困る。旭希がそう言うと、やっと彼女は微笑んだ。最後にもう一度だけ「ごめんね」と言った彼女に、旭希が頷いて。その瞬間、炯がパンッ!と大きく手を叩く。
「は〜い終了」
「二階堂くん」
「ね?どうせ忘れてるって言ったでしょ。もう開放されてもいいよね」
と、炯が持ち上げたのはさっきのケーキ屋で預かった袋。途端に中野は頬を染めた。
「パティシエ滝沢から本日の貢ぎ物〜」
紙袋を押し付け、隣の椅子を引き出した炯は、旭希に手招きする。
「旭希どー思う?」
「何が」
「滝沢がさあ、中野さんにずーっとラブコール送ってんの」
「はあっ?!」
滝沢と中野では、親子とはいかないまでもそれに近いぐらい年が離れているはずだ。炯に薦められた椅子に座って、中野を見上げれば。照れているのか困っているのか、彼女は真っ赤になって、店の奥へ逃げ込んでいった。
「ここで花の世話してる彼女に、一目惚れしたんだって。自分で持ってきても受け取ってもらえないからって、僕が配達してるわけ」
「…見かけによらず繊細なんだな」
「そうなんだよねえ。しかも彼女、旭希のことがずーっと引っかかってて、ろくに恋愛してこなかったっていうしねえ」
「なんで…オレが?」
「初恋だったんじゃない?しかも彼女としては、旭希を傷つけて終わっちゃった初恋。だからかな、消極的だって奥さんも嘆いてた」
「奥さんって、中野のお袋さん?」
旭希が聞いたところで、バタバタという足音と共に、店の奥から笑顔の中年の女性が現れた。中野によく似た容姿は、誰かなんて聞くまでもないだろう。
「炯ちゃん、いらっしゃ〜い」
「お邪魔してタバコ吸ってま〜す」
「なんだい、この子はほんとに。体悪くするよ!…あれ、あんた。高沢さんとこの?」
びっくりした顔で。旭希と炯を見比べる母親は、ぱあっと明るい表情を見せる。
「あれあれ!お父さん似の男前になったじゃないの!やっと来てくれたんだねえ」
唐突な父の話に、旭希はひくりと頬を引きつらせたけど。それに気付いた炯が、彼女には見えないよう、旭希の足に手を置いた。
旭希は複雑な思いで、隣にいる炯を見つめる。にこにこと愛想良く中野の母親に笑いかけていた炯が、旭希に視線を移した。メガネの向こうにいつもと変わらぬ瞳があって、旭希はふっと安堵の息を吐く。
「…父を知ってるんですか?」
「知ってるも何も!佐久間さんはいつもここで、花を買ってくださってたのよ」
驚きに目を見開いた。
父が家に来るたび、母へ花を贈っていたのは知っている。いつも玄関を飾っていた豪華な花。どんなに父が嫌いでも、四季折々、彩り豊かな花たちは旭希の目を楽しませてくれていた。
「父が、自分で?」
どうせ届けさせたものか、部下にでも用意させていると思っていたのに。こんな近場で、しかも自ら店に赴き、買っていたなんて。
「そうよぉ。いつもメインの花を自分で選ばれてね。うちの旦那が作る花束を気に入って下さったのねえ。懐かしいわ〜」
「旦那さんのアレンジメント、いいんだよね。僕も最近はここで花作ってもらってるんだよ」
「お前も?」
「なんだよ…おかしい?舞台人に馴染みの花屋は必要不可欠ですから」
知人の公演に贈ったり、客演の俳優に贈ったり。利用機会は案外多いのだ。
「…中野が父の仕事を知っていたのは、そのせいなんですね」
「ねえ…ごめんなさいねえ。私、びっくりしたのよ。あの子が学校から帰って来て、わんわん泣くもんだから」
「いや、それはもう…」
迂闊な発言に、話が元へ戻ってしまう。しまったと表情を変える旭希の隣で、炯は灰皿にタバコを押し付け、立ち上がった。
「奥さん、花は?」
「あら、もう行くの?」
「うん。今度また旭希と来た時にでも、奥さんがどんなけ佐久間さんのファンだったか話してやって」
「そうそう、カッコ良かったもの〜。じゃあ、これお願いね」