[Novel:10] -P:07-
どうだか、と笑う旭希に下がれと指示されて、炯は二・三歩後ろへ下がった。白猫を抱き上げたまま、ひらりと旭希が飛び降りてくる。
軽くやっているが、ポストの高さから飛び降りるなんて芸当、なかなか出来る者はいないだろう。
「…なんか、ムカつくんですけど」
「何がだよ?」
「旭希って昔から、僕に出来ないこと軽くやってのけるよね」
不満そうな顔で小さく呟きながら、炯が歩き出す。仕方なく重たい猫を抱いたまま、旭希はあとを追って歩き出した。今度は両手が塞がっているので、緩む口元を隠すことは出来なかった。
バスルームから聞こえてくる音に耳を傾け、見るともなしにつけているテレビに目を遣っていた旭希は、無言で立ち上がった。きゅっと水を止める音がしていたから、もうすぐ炯が出てくるだろう。
あのあと、アンナさんという名の猫を抱いて連れて行かれたのは「&ジュエル」という看板のかかった店。エンジェルって読むんだよ、と炯が教えてくれた。ゆったりとしたジャズのかかる店は、居酒屋とバーのちょうど中間といった雰囲気いいの店だった。
……そういえば、今気付いたが。屋号がエンジェルで店主が森永なんて、出来すぎている。冗句で店名をつけたんだろうか?
ぺたぺたと裸足でフローリングを歩く音がする。旭希は冷蔵庫を閉め、取り出したビールを片手に振り返った。
「どうせ飲むんだろ?」
「飲みます。ありがたいです」
森永氏の店でもさんざん飲んでいたのに、風呂上りだと、また別物らしい。下戸の旭希には理解しがたいことだが、炯の幸せそうな顔を見られるのだから深く考えないことにする。
立ちっぱなしでプルトップを上げ、美味しそうに口をつけている炯は、濡れた髪のまま肩にタオルを掛けている。さすがに湯上りではメガネを外していて、整った顔は上気した頬を晒していた。
「ったく…風邪引くぞ。ほら来い」
炯の腕を引き、ソファーの前に座らせると自分はソファーに座って、掛けていたタオルで丁寧に髪を拭いてやる。
「本当は酒飲んだヤツ、風呂になんか入れたくないんだけどな」
危ないから、と続ける旭希を見上げた炯は、上機嫌で微笑んでいた。
「いいじゃない。何かあったら、助けてくれるだろ?」
「そういう問題じゃない」
「面倒かけるのも、甘えるのも、旭希だけなんだからさ。本気で嫌なら言ってくれていいよ。直すから」
手を止めた旭希は、むすっとした顔で「直さなくていい」と呟いた。不本意そうな声に、炯は笑って旭希の足に寄りかかり、目を閉じる。
「炯?」
「テレビ、消して」
「なんだ?うるさいか?」
「うるさくないけど、見たくない。そんなに見たい番組?」
「いや、見てなかったからいい」
リモコンに手を伸ばし、消して。部屋は急に静かになった。黙って髪を拭いてやる旭希は、炯が最近仕事で煮詰まっていることも知っていたけど。こればかりは旭希が手を出せることではない。
「…久々に、旨いもん食ったな」
話題を変えてやると、炯は嬉しそうに顔を上げた。
「旭希の作る料理ほどじゃないけどね」
「褒めてもそれ以上、ビールは出てこないぞ」
「あれえ…そうなの?」
「充分飲んだだろ。飲み足りないのか?」
ふるふるっと首を振った炯は、ソファーによじ登って身体を横たえる。当然のように旭希の足に頭を置かれると、まだ半乾きの髪で足が冷たかったが、旭希は気にした様子もなく炯の髪を撫でていた。
「…旭希が怒らなくて、良かった」
うっとり目を閉じている炯が、囁くような小さな声で零す。
「なにが」
「今日、佐久間さんのこと色々言われたじゃない?僕は旭希が嫌うほど、佐久間さんを嫌いじゃないんだよね」
「………」
ハルノに大人物だと言われた。中野の母はカッコ良かったと。森永氏の店でも、父の話題は事欠かなかった。今年五十になるという森永氏は、自分がここで店を出来るのも、佐久間のおかげだと言うほどで。
「自分の父親じゃないからかもしれないけどさ。旭希のママさんから聞いていたせいかな…前からそんなに嫌いじゃなった。ママさん本当に佐久間さんのこと大好きだったから…」
旭希の知らない話。
旭希の家で、炯は彼女と会うたび佐久間との話を聞かされていた。どうやって出会って、どんなところを愛したのか。息子が聞いてくれないの、と嘆いていた。
「花、ね。佐久間さんがいつも持って来てたこと、知ってたよ。近くのフローラってお店で選んできてくれるのって、ママさんが教えてくれた。だからいつか、中野さんの店行ってみたかったんだ」
「どんなヤツでも、ヤクザはヤクザだ」
苦々しく呟く旭希に、目を開けた炯が微笑んでいる。