[Novel:09] -P:01-
手を焼いた仕事から解放され、自宅に戻って明かりに手を伸ばした男は、気配に気づいて緊張を走らせた。
自分と秘書以外には、ただ一人しか自由に入ることを許していない部屋に、見つけた人影。唯一プライベートでここへ来ることを許している細身のシルエットに緊張を解き、思わず口元を緩める。
いつから来ていたのかは知らないが、ダイニングテーブルに広げられたパソコンや資料に、彼が意識を集中していないのは確かだ。空になったワインボトルを見るまでもない。暗い部屋では、さぞ資料も読みにくかろう。
ほっそりした肢体が繊細なデザインのダイニングチェアーで片膝を抱えている。抱えた膝頭に頬を押し付け、目を閉じるのは見慣れた彼の姿だ。仕事で、私事で、思い悩むと彼はいつもそうしている。
宵闇に浮かび上がる姿は、ずいぶんと儚げで麗しいが。彼に自覚がないことを、男は誰より知っていた。
男が帰ってきたのにも気付かない、二階堂炯(ニカイドウケイ)のそばへ歩み寄って。彼の肩越し、開きっぱなしのモニターを覗き込む。気配にはっと目を開けた炯は、間近な男の顔を振り返った。
「鷹谷さん……」
鷹谷慎二(タカヤシンジ)は、振り向いた炯の唇に触れるだけのキスを落として、真っ白な画面をとんとん、と指先で叩いた。
「はかどっているのか?」
むうっと膨れた顔になった炯は、乱暴にマウスを掴んで開いていたウィンドウを閉じると、電源を落としてしまう。
「はかどってるわけないでしょ」
「だろうな」
いつものように言い捨てた鷹谷は可笑しそうに笑って、苛立たしく資料を片付けている炯のそばを離れていった。
鷹谷は疲れた様子で、脱いだ上着をそのままソファーに放り出してしまう。うざったそうにネクタイを緩める姿を見ながら、炯はいまさらだがどうしてここへ来たんだろう?と考えていた。
まるで何かに支配され、壊れてしまったかのように、炯の名前を囁き続けていた旭希。
彼に言い知れない恐怖を感じたのは、事実だけど。飛び出して逃げ込んだ先が、原因になった鷹谷のマンションだなんて。自宅へ帰ったってそう距離は変わらないし、何より鷹谷が仕事でまだ帰っていないことは知っていたはずだ。
何も言わない炯の視線を背中に感じ、鷹谷は振り返りって「どうした」と。同じ男でも腰が砕けるような、低く響く声で聞いた。
炯も背が高い方だが、そんな炯より10センチ近く高い上背。きつい印象は仕事柄、仕方ないと思うけど。その辺の役者よりも見栄えがする顔立ちは、何度考えたって、炯なんか相手にしなくても充分困らないだろうに。
「大体あなたが…」
勝手な言い分が止まらない。鷹谷の顔を見てしまったら、さっきまで必死に自分の力で立ち上がろうとしていた心が、すぐに挫けてしまう。
リビングに置いてあったタバコに火をつける鷹谷は、炯が眉を寄せるのを面白そうに見ていた。
手にしているのは革張りのシガレットケース。中にはブラックストーンという甘い煙のタバコが並んでいる。パッケージからいちいち移すのは面倒じゃないですか?と聞いたことのある炯に、鷹谷は自分でやるならな、と平然と答えていた。……誰がやっているのか知らないが。そんなマメな相手がいるなら、炯ではなくその人の相手でもしてやればいいと思うのに。まあ勝手に他人の家に上がり込み、我が物顔でワインを開けている炯に、言えることではないだろう。
ふわりと広がっていく甘ったるい香りに、拗ねた表情でメンソールを咥えた。
大体。炯が甘いものを嫌いだと知っているくせに、それを充分承知の上で、鷹谷はこのタバコを吸い続けている。タバコだけじゃない。渡されたコーヒーに砂糖が入っていたことだって、口移しで無理矢理チョコレートを食べさせられたことだって、一度や二度じゃなかった。そんな子供っぽい嫌がらせ、似合わないからやめて下さいと言うのに、鷹谷は面白がるばかりだ。
鷹谷の方は、いちいちそうやって素直に嫌そうな顔をする炯が、可愛くてやっているのだから、仕方ない。……もちろん、言ってなどやらないが。
「それで?」
「だから!あなたが僕の珍しい誘いを断ったりするからっ!」
ダイニングチェアーの背もたれに寄りかかり、訴えるのは随分とひとりよがりな文句。子供の癇癪みたいで、鷹谷は思わず肩を揺らせた。
「珍しい自覚はあるんだな」
「そりゃありますよ。あなたみたいな怖い人、しょっちゅう誘うほど困ってません」
「例の女優とは上手くやっているのか?」
「いつの話ですか!ほっといて下さい!」
名前を上げる為に付き纏っていた女優の話を揶揄されて、炯は少し頬を赤くする。一緒にいるところをマスコミに見つかり、散々な目に遭ったのは三ヶ月前のこと。そういえば、あの時も鷹谷に絡んでいたような。
「仕方ないだろう」
「なんですか仕方ないって」
「仕事は仕事だ」
「酷い人だな。仕事と僕と、どっちが大事なんですか?!」
「…お前だとでも言って欲しいのか?」