[Novel:09] -P:07-
驚愕に震える炯を抱き上げると、鷹谷は笑みを浮かべたままベッドルームへ移動した。
心地いいシモンズのベッドに下ろされ、着ていたものを全て脱がされてもまだ、炯は呆然としたまま鷹谷を見つめていた。
翌朝、旭希の元へたどり着いたメルセデスにはノンフレームのメガネをかけた男が乗っていた。
運転席から目の赤い旭希を見上げ、笑顔で挨拶の言葉を口にするが、嫌味な印象が拭えない。
「お前が鷹谷の使いか?」
「ええ、橘と申します。こちらへどうぞ」
わざわざ車を降り、橘と名乗った男は慣れた手つきで後部ドアを開けた。人にドアを開けてもらうことなど、めったにないから。旭希は多少面食らって、しかし不機嫌な表情を変えることなく乗り込んだ。
寝不足で、頭痛がする。「どうせ寝られるはずがない」と鷹谷が話していたことなど、旭希が知る由もないが。確かに旭希は、一睡もすることが出来ないまま、朝を迎えていた。
炯が飛び出して行った日からずっと。仕事に差し支えると思って、無理矢理休息をとるものの、針が落ちる音でも目が覚めそうな浅い眠り。
出勤した図書館では、普段するはずもないミスを繰り返し、怒られるどころか心配される始末。昨夜、自宅にいた館長を叩き起こして「明日休ませて下さい」と言ったときも、眠そうな声で「お大事に」と結論付けられてしまった。
走り出した車のシートに身を預けても、不眠と苛立ちにささくれた心はなかなか落ち着かない。旭希は嫌そうに目を上げ、運転席の男を見た。
「お前は佐久間の?」
話しかけると、バックミラー越しに気の強そうな目が旭希を見つめる。口元だけが笑っているが、凄みのある光がメガネの向こうで、旭希を値踏みしている事などバレバレだ。
「お父様に、お世話になっております」
「はっ…お前もヤクザか」
「そうなりますね。肩書きは一応、鷹谷社長の秘書です」
「社長?鷹谷が?」
「ええ。もちろん、佐久間の関連企業になりますが」
「…ヤクザの考えそうなことだな」
自分から話し掛けたくせに、一方的な言葉で終わらせてしまう。橘は肩を竦めて見せただけだ。
確かにこの、橘という男。一見するとどこからもヤクザなどには見えないだろう。
仕立てのいいスーツに身を包み、物腰も柔らか。冷徹なイメージは払拭できないが、それすらも仕事の出来る男を演出している。佐久間の父が鷹谷の才能に期待して、大学へ進学させていたのは知っているが、彼もその類なのかもしれない。
揺れの少ない車内で、旭希は辛そうに目を閉じた。
炯が、酷い目に遭っていなければいいと思う。自分と父の事情に、炯を巻き込むのだけは避けなければならなかったのに。
もう、忘れた気でいた。自分には関わりのない人だと思っていた。
昨日、鷹谷の名を聞いたときから、一気に蘇った佐久間との過去。
母を亡くしたあと、佐久間と会ったのは、今の家を譲ってもらいたいと交渉しに行ったときだけだ。本当は佐久間の用意した家など、すぐにでも出て行ってしまいたかった。しかし真夜中でも存分にピアノを弾いていられる家が、炯のお気に入りなら旭希に手放せるはずもなくて。
あの時は、確かに鷹谷が同席していた。数年ぶりに会った彼は、自分の知っている青年と似ても似つかない、大人の雰囲気をまとっていたけど。
一時間ほど、車内に重苦しい沈黙を抱えたまま、メルセデスは街を走り抜けていった。早朝の街に車は少なくスムーズな移動だったが、旭希には苦痛なほど長く感じる時間。
ようやく車が止まったのは、都内の高層マンションだ。そのまま橘に案内され、最上階へ。人を苦しめるしか能がないヤクザのくせに、と旭希は苦い気持ちを噛みしる。
一室の前で、橘が足を止めた。
インターフォンから応じる声は、確かに鷹谷のもの。入れ、と。尊大な物言いに重いドアが開かれ、旭希を中へ促した。焦る気持ちを抑えながら、足を踏み入れる。
広いリビングで、やっと炯の姿を見つけて。ようやく旭希は息をついた。壁一面の窓に近づけられた一人掛けのソファー。ほっそりとした姿が、拗ねたように足を抱えて座っている。
「炯…」
呼びかけると、彼は困ったような表情で旭希を振り返った。
「…おはよ、旭希」
「あなたも飲みますか」
声のほうを見ると、ダイニングで鷹谷がコーヒーを淹れていた。白いシャツをラフに着こなし、注ぎ口の細いステンレスのポットから、ドリッパーに湯を落としている姿は、文句のつけようもないほど様になっている。カップにコーヒーを注ぐ一連の動作を見て、旭希は鷹谷の余裕に唇を噛みしめた。