[Novel:11] -P:01-
年が明けても、寒い日が続いている。
二階堂炯(ニカイドウケイ)が高沢旭希(タカザワアサキ)を選び、共に暮らし始めてからは、穏やかに日々が流れていた。静かに過ぎていく毎日の中で、互いを思いやる関係は、熱を冷ますことのないまま続いている。……もちろんたまには言い争うこともあったが、どれも些細なことだ。
最初は旭希ばかりが音を上げ、謝罪を口にしていたケンカも、しだいに炯が痺れを切らせ、にじり寄っていくことが少なくなくなっている。まあ甘やかされているせいで、相手が旭希だと炯はなかなか素直に謝れないのだが。
誰に邪魔されることもなく、炯にとっては結婚していたときよりも安定した日々。
……音のない闇に耳を傾ける炯の、わからないくらい小さな変化に気付いたのは、旭希が先だった。
じっと身をかがめ、窓の下を眺める猫のような炯の静けさが気になって。しかしそれも、次の仕事に入るまでのことだろうと思っていた旭希は、特に何も言おうとしなかった。
深刻な事態になっていると、気付いたのは炯が先だ。
集中できないでいる脚本は、書いても書いても、自分で面白いと思えない。
原因は、わかっていた。
それはあまりにもワガママな理由。
不満のないことが不満だなんて、あまりにも子供じみた言い分だ。満たされていることが、炯に動揺を与える。
寒さに凍えれば、必ず温度を与えてもらえる暮らし。与えられることに甘え、幸せに酔うことで、炯のバランスは確実に崩れていた。
――しばらく仕事場に泊まるから
〆切りを気にして判断したのは炯自身だ。しかしいざ当日になると、家から出るのが怖くて、炯は旭希の手を離せなかった。仕方なく旭希が仕事を休み、炯を都内の仕事場があるマンションまで送って行って。
心配そうな旭希に、炯は微笑んでいたけど。車を降りていく顔は、泣きそうに見えて旭希を不安にさせた。そうして……炯自身も。エレベーターの中で膝を崩した己に、僅かならず驚いていた。
旭希の支えなしでは立っていることも出来ないと、自覚させられて。
炯は、タバコを挟んでいないほうの手を目の高さまで持ち上げ、爪が食い込むまでぎゅうっと握りしめた。
――腐っていく、気がする…
気持ち悪いほど白い自分の肌に、吐き気がする。
まだ、三日だ。仕事場に篭って、たった三日。旭希に会わなくなって三日しか経っていないのに、炯の心はどんどん孤独に蝕まれている。
目を閉じて傍らの灰皿に押し付けたのは、茶色く長い、甘い香りのタバコ。まだあたりにくすぶる甘ったるい匂いが癇に障って、炯はバンッ!とデスクに拳を叩きつけた。
「に、二階堂さん。どうかしましたか」
後ろから声をかけたスタッフは、よほど驚いたのか声が震えている。
今まで炯は、執筆中に人がいることを嫌っていた。しかし今度ばかりは自分を信用できず、常時二〜三人のスタッフを周囲に置いている。それはまるで、自分の見張りを求めるかのように。
炯ほどの仕事量で手伝いがいないなんて、今までの方がどうかしていたんだと。彼らは快く引き受けていたけど。最近の荒れようは、長く炯に付き合っている仲間でも、見たことのないものだ。
「あの…」
近づいてくる若い女性の気配に、コーヒー、と居丈高に命じた炯は、窓際の机に向かっていた椅子をくるりと反転させた。そこにいた三人の顔なじみは、慌てて視線を反らせる。
腫れ物でも扱うような態度に、苛々した気持ちが膨れ上がった。
炯はいつも吸っているメンソールに手を伸ばし、空だと気付いて握り潰すと、乱暴にゴミ箱へ投げつけた。
「タバコ!」
「は、はい!あの、銘柄は…」
資料を置いて立ち上がったのは、炯の脚本に惚れこんで劇団AZ(アズ)に入った青年だ。彼は気遣いに長けた炯しか見たことがなかったから、余計に怯えた表情になってしまっている。
そんな態度が、ますます炯を苛つかせるとも知らずに。
「銘柄?どういう意味?」
「えっと、あの…最近、二階堂さんその茶色いの吸ってることがあるから。いつものだったらストックあるんですけど、そっちのはたぶん、この辺では買えないんで…」
ぎらりと睨みつける炯の不機嫌な顔に、青年は恐怖で棒立ちになった。
「あのね。僕がこのタバコ、君に買って来いって言ったことがある?近所の自販機で買えないようなタバコ買って来いっていうほど、僕が不親切だとでも!」
まだ中が入っているブラックストーンのソフトケースを投げつけられて、青年は泣きそうに顔を歪める。
「すいません…」
「二階堂、いい加減にしろよ」
とうとう口を挟んだのは、劇団の立ち上げ当初から制作部を担当している仲間だ。煮詰まっているのはわかるが、最近の炯は行き過ぎている。