[Novel:11] -P:03-
「今日はいいから。誰もお前を責めてないだろ?…連日の徹夜で、疲れてるんだよ。ほら立って」
ふらつく炯を支え、旭希は自分たちを見守っている男と視線を合わせた。
〆切まで時間がないのは、事実だけど。今は炯を休ませる方が先だ。頷きあって、旭希は出口へと炯を導いていく。
タバコを買いに行けと怒鳴られた青年の横で、炯は足を止めた。ゆっくりと視線を上げる。きれいな瞳が涙のせいで潤んでいるのを見せられ、青年はどきっと胸を震わせた。
「さっきは、怒鳴ってごめん…」
「そんなこと、気にしないで下さい。…二階堂さん、俺…」
「あのタバコね、吸いたくて吸ってるんじゃないんだよ…」
「…二階堂さん?」
「あのタバコ嫌いなんだ…甘いし…。でも吸ってないと…気が狂いそうになるから…」
ああ、そうじゃないのかもしれない。あのタバコを吸っているせいで、気が狂いそうなのかも。
そこに描く影を追って。
追っている自分が、許せなくて。
「炯、おいで」
独り言のような炯の言葉を理解できず、困惑した表情を見せていた青年に、旭希は「悪いね」と苦笑いを見せた。引きずられるようにして炯が去った後、残された三人は顔を見合わせる。
荒らされた部屋の惨状に、三人はそれぞれ意味の違う溜息を吐いていた。
旭希が運転する車の助手席で、炯はずっと窓の外を見ていた。夜の街に流れていく光は、冷たい空気に映えて、とてもきれいだ。
線を引くように残像が残るのは、時間が止まらない証拠。
時の行き先も、帰る場所も知らない一人の少年。ただひとり置き去りにされて、無気力に何百年という時間を、時代を、見つめている少年。彼が大切なものを見つけ、生きることと死ぬこと、人の愚かさと愛しさを知る物語。
……炯が、次の舞台で表現したいもの。
赤信号で車が止まった。
自分を見つめる心配そうな視線に気付いて、炯は振り返った。
「旭希…」
「少しは、落ち着いたか?」
「ん…。…悪いことしたなあ…パソコン投げたりして。データ吹っ飛んじゃったかも」
旭希も苦い顔になる。確かに、あの惨状ならデータの確保は難しいだろう。
「三日前までのバックアップなら、うちにもあるんだけどな」
「そっか…そうだね。じゃあ、いいや」
「炯?」
ふふっと笑った炯は、悪戯を告白する子供のような顔で旭希を見ている。
「書いてないんだ」
「それって…」
「この三日、ひと文字も進まなかったんだよ…だから不幸中の幸い?」
「………」
「?…どうしたの、旭希」
「いや、なんでもない」
手を伸ばし、そっと炯の頬に触れる。どんなに苦しんでも、とにかく書き続けることで乗り越えるタイプなのに。そんな炯がまったく書けなくなっているなんて。
気持ち良さそうに目を閉じるから、もっと触れていてやりたかったけど。青信号に後ろの車からクラクションを鳴らされ、旭希は手を離してアクセルを踏んだ。
「腹、減ってないか?」
「…減ってる。何も食べてない」
「なんか食って帰るか?車置いて、森永さんの店にでも…」
森永さんというのは、家の近所で居酒屋を営む店主の名。炯が懇意にしている森永の店は、味も雰囲気も炯のお気に入りなのだが。そこへの誘いにも炯は疲れきった様子で、首を振ってしまう。
「いらない」
「そうか…」
「旭希は?疲れてる?」
「いや、平気だよ。じゃあ家で食うか。なに食いたい?」
「…オムライス」
「お前、そればっかだな」
くすっと笑った旭希に、炯は淋しそうな表情で目を閉じた。
「小さいとき、よく父さんが作ってくれたんだよね…オムライス」
「…初めて聞いたぞ」
「ん…なんか、子供っぽいじゃない。幼い頃の好物にこだわってるなんて…。だから誰にも言ったことない」
「…そうか」
「なんかね〜、小さいときの父さんの記憶って、オムライスと病院で手ぇ振ってるのしかないんだよ…。退院してる間に作ってもらったのにさ、作ってもらってるシーンが思い出せないんだ」
「炯の親父さん、料理なんかするんだな」
旭希の言葉に、炯は可笑しそうな顔をして「違うんだよ」と笑った。
「父さんと母さんがケンカするでしょ?そしたら、大抵母さんが勝っちゃうんだ。口が立つから…」
「ああ、そんな感じだ」