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[Novel:11] -P:04-


 旭希は夏の千秋楽で会った、炯の母親を思い出していた。快活で明るい、旭希の母親とはまるでタイプの違う人。炯の舞台にいつも二人で顔を出す彼らを、旭希は理想の夫婦だと感じていた。
「負けちゃった父さんは、謝る代わりになんでかいつも、夕飯を作らされるんだよ。それが毎回オムライスなんだ。…母さんと居間に座って、一緒に待ってるの。そこは覚えてるんだけどね…」
 思い出のオムライスは、もう味さえ思い出せない。とても美味しかったような、大して美味しくなかったような。曖昧な記憶。
 ただ、母と一緒に、そわそわ待っているシーンだけを覚えている。
 キッチンから音がしていて、そこには見えないけれど、父がいて。母と二人、顔を見合わせ笑い合いながら「早く早く」と声をかける。どんな風にあの身体の大きな父が、狭いキッチンに立っていたのか。一度くらい、見ておけば良かった。
 遠い幸せな記憶。
 それが自分を蝕むのだと知っていて、炯は辛そうに眉を寄せた。黙り込んだ炯の隣で、旭希は何も聞かずに車を走らせる。窓の外に見えていた背の高いビルは、街を離れるにしたがって少なくなっていった。


 温かい夫婦に愛されていたのに、幼い頃の炯は、いつも理由のわからない淋しさを抱えていた。愛されているのに淋しいと感じる自分が、傲慢に思えて許せなかった日々。
 抱えたまま消えない矛盾に苦しんでいた炯が、自分は養子なのだと知ったのは、中学に入る前だ。
 ほんの、偶然の出来事。親族の集まりで交わされていた会話には、両親も不在で、炯が聞いていたことなど大人たちは気付きもしなかった。
 炯が生まれてすぐ、本当の両親が事故で他界。子供のいなかった伯父夫婦が、炯を引き取ったのだと。美談を称える親族の会話に、なにも後ろ暗いところはなかった。他人の話なら、きっと炯もそう思っただろう。
 仲のいい、優しい人たちのお話。

 なのに、炯は。あからさまなほど、ほっとしている自分に気付いた。
 ほっとして、納得している。
 ――そんな自分が憎くかった。
 こんなにも深い愛情を注がれて、まだ満足できないのか。養子だったからだなんて、甘えるのもいい加減にしろと。誰にも責めてもらえないから、炯は自分で自分を責め立てた。
 言葉にならないほどの苦痛。声にならない悲鳴を上げ続け、それでもなお自分を責めた。
 弱い自分を切り捨てたい。いっそ死んでしまえばいい。……でも、出来ない。手にしている幸せを離したくない。違う、両親を悲しませたくないんだと、言い訳を続ける己の不甲斐なさ。
 たった一人で自分を呪い続ける子供。

 両親が炯を呼び、本当のことを話してくれたのは18の誕生日。最後まで黙って話を聞いていた炯は、知ってたよ、と小さく呟いた。
 その時母が見せた、傷ついた表情は今でも忘れられない。黙っていてごめんなさい、と謝る二人に返す言葉がなくて、炯は何も言わず首を振っていた。
 謝らなければならなかったのは、炯の方だ。何の罪もない二人を傷つけてしまった、炯の方。
 そのとき、やっと気付いた。炯の中にあった痛みの正体に、罪悪感という名前が付けられた。ずっと抱えていたのは、これだったのだ。
 仲のいい夫婦に、突然押し付けられた自分という存在への罪悪感。
 愛されているのに、孤独を感じていることへの罪悪感。
 しかし気付くのが、あまりにも遅すぎた。
 全てを謝罪できたはずの機会を奪われ、炯の気持ちは行き先を失った。彼らの辛そうな表情は、棘のように炯の心に突き刺さったまま、抜けなくて。その日から炯は、少しずつ二人と距離を置くようになった。

 今は仕事で忙しく、世界中を飛び回っている夫婦。彼らはいつまでも炯を見守ってくれている。大きな舞台では必ず、どんなに忙しくても千秋楽に顔を出してくれる。娘のまどかのことも、本当に可愛がってくれる人たち。
 愛しているし、感謝しているのだけど。
 再び彼らと暮らすことは出来ないだろう。彼らの息子でいることへの罪悪感は、もう二度と消えないのだから。


「炯…?」
 旭希に呼ばれて、炯は虚ろに泳がせていた焦点を運転席に合わせた。
「なに?」
「いや…いい。なんでもない」
 泣いているんじゃないかと思ったのだ。ふわふわとした声で、十数年来の付き合いでも聞いたことのない思い出を語っていたから。炯が、泣いているんじゃないかと。
 軽く頭を振って、旭希はもう何も言わずに車を走らせる。
 家までの道のりが、いつもより長い気がした。時々隣に座る炯を見つめれば、なんでもないように微笑を返してくれるけど……メガネの向こうで細くなる目は、少しずつ少しずつ、旭希から離れていくように感じる。


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