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[Novel:11] -P:06-


 壁に手をついた旭希は、ぼろぼろ泣く炯を見つめ、震えの止まらない身体を優しく抱き締めてやった。
 祈るように、目を閉じる。

 助けたい。
 炯を、救ってやりたい。
 この家に閉じ込めて、炯を煩わせる全ての世界から、引き離してしまおうか。舞台のことなんか忘れて、観客などいない世界に連れて行ってしまえばいい。そうすることで炯が救われるなら、旭希は迷うことなく炯を奪い去るだろう。
 どうしてそれではダメなのか。
 誰より炯を愛しているのは、観客でもあの男でもなく、自分だと思うのに。
 ……いや、わかっている。どんなに旭希が炯を愛していても、炯の求める世界は、自分の手出しできない、夢の中にしかないのだ。
 舞台という、幻想を作り出す世界に捕らわれた炯。彼から演劇を引き離すのは、炯を殺してしまうのと同じこと。

「…炯。ごめんな」
 引き下げたジーンズから炯の片足を抜いてやって、旭希はその足を抱え上げた。そっと身体を向き合せる。見つめる先で、涙に濡れた瞳が旭希を映していた。
「痛かったか?」
 ふる、と炯が頭を振る。
 旭希の頬を包む白い手は、少し冷たくなっていた。ブラウンがかった瞳が、旭希の浅はかな思惑を見透かしている。何のためにこんなことをしたのか、炯にはわかっているのだ。
「あ、さき…」
「一度抜くか?」
「ん…いい、このままで…ごめん、あさき…ごめんなさい…」
 旭希の気持ちを、全部理解して。辛そうな声で謝罪の言葉を繰り返している炯に、口づけた。離れた旭希は、悔しげに唇を噛みしめる。
「謝んのはオレの方だろ…続けるぞ。いいか?」
 乱暴に抱いたからといって、炯の悲鳴に苦しむ旭希などでは、開放してやれないのだ。炯のために、したくもないことをしている旭希の気持ちを、彼は理解してしまう。
 それは脚本家である炯の、ずば抜けた才能なのだけど。けして炯を救ってはくれない能力だ。
 ゆっくり頷き、わずかに微笑んだ炯の唇を塞いだ。いつも通りの優しい抽送に、炯は甘い喘ぎ声を零していた。





 教えられた番号を押し、携帯電話を耳に押し当てる。真夜中にも関わらず、鷹谷(タカヤ)は会社にいるらしい。
 どうにかして彼を捕まえたかった旭希は、十年ぶりに自分から父へ電話をかけ、驚かれたところだ。鷹谷の連絡先を教えて欲しいという、不躾な願いを父は快く引き受けてくれた。
 ……ただ、元気にしているのか、とだけ聞かれた。少し嬉しそうな声に、炯の言葉が蘇ってくる。

 ――佐久間(サクマ)さんは、生まれたときからヤクザだったわけじゃないよ……

 自分の方こそ、あんなにも優しい両親と距離を取っているくせに。炯は旭希を気遣って、佐久間の父を庇ってくれる。
 そのせいか、父の言葉に短く応える自分の声が、いつもよりも柔らかい気がした。
 旭希の支えになってくれる炯は、いま眠りに落ちて、旭希の傍らで横になっている。疲れていたのだろう、青い顔をして眠る炯の髪に指をくぐらせていると、聞き覚えのある声が「珍しいことがあるものだ」、と耳元で笑っていた。

 鷹谷は黙って、旭希の言葉に耳を貸してくれた。最近の炯の様子と、自分の考え。そうして、随分と身勝手な願い事。最後まで話し終わったとき、答えを求める旭希に、鷹谷は相変わらず何も言わなくて。
 わずかな沈黙。旭希は自分の勝手な言い分をわかっているだけに、ダメかと諦めかけていた。
『…あなたは、それでいいんですか』
 是か非かではなく問われ、答えに詰まる。穏やかな口調はまるで、気遣われているような錯覚を起こしそうだ。
『自分が何を言っているのか、わかってるんでしょうね?』
「ああ…わかってる」
『いいんですか?』
 もう一度問われて、旭希はいいはずがない、と悔しげに答えた。
「いいはずがない。今すぐにでも、間違いだったと電話を切りたいくらいだ」
『そうでしょうね』
「…仕方ないだろ…オレはもう、こんな炯を見ていたくない。炯を救うためなら…手段を選んでいられない…」
 悔しい。本当は、こんなこと頼みたくなどない。けれど旭希は、自分という存在が炯の妨げになっていることを、痛感していた。

 旭希は三日前に送って行った、仕事場で別れたときの炯の表情が忘れられず、結局顔を見に行ってしまっていた。


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