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[Novel:11] -P:07-


 何かが壊れる大きな物音を聞いたのは、ドアを開ける直前。
 驚いて中へ飛び込んだ旭希が、最初に目にしたは、マグカップを振り上げている炯の姿。
 長い付き合いだが、炯が物に当たっているところなど見たことがなくて。陶器の割れる音が響いた瞬間、名前を叫んでいた。

 穏やかな毎日の中で、幸せそうに微笑んでいた炯が、虚構だったとは思っていない。旭希の隣で何気ない毎日を楽しんでいる炯は、偽りなく求めた幸せを手にしていたはずだ。
 理由もなく唇を触れ合わせると、恥ずかしげに目を伏せ、照れて笑う甘い表情。愛しい毎日を、手放したいわけじゃない。
 ただ、それだけでは…炯が炯として生きていられないと気付いてしまった。

 お前なんかに渡さないと宣言したくせに、助けて欲しいと願い出る旭希を、鷹谷は笑わなかった。
『明後日の週明けから一週間、炯を預かっても構いませんか』
 願いを聞き届けた上での提案なのに、旭希は拳を握り締める。
 なかったことにしてくれと、電話を切ってしまいたい。
「…わかった」
 すぐそばで眠っている炯を見つめ、自分を押さえ込む。白皙の頬は、少し痩せただろうか?仕事場に篭るまでは毎日のように、旭希の手料理を食べていた炯。でもその時でさえ、細くなっていく気がしていた。
 搾り出すような声をどう受け取ったのか、鷹谷は懐かしいトーンで話しかけてくる。
『旭希さん』
「…なんだよ」
『私は混乱した炯に、灰皿を投げつけられたことがありますよ』
 目を見開く旭希の顔を見てもいないのに、鷹谷は小さく笑う。
「炯が?」
『ええ。怒鳴り散らして、暴れたりね』
「………」
 付き合いの長い自分でも想像がつかないような炯の様子を語られて、旭希は驚きを隠せない。
『…それだけあなたが、大切なんです』
「どうだかな」
 もしかしたら、お前にだけ気を許しているんじゃないかと。やさぐれる旭希に、鷹谷はそうじゃない、と柔らかく語りかける。
『私とは、いつ切れてしまっても構わないと思っていたでしょうし、そのつもりだったでしょう。炯には珍しい存在だ』
「そう、だな…」
 炯には、周囲に集まる人間の全てを守ろうとするところがある。そんな性分はいつも、炯自身を傷つけるのだけど。
 当り散らす相手がいなかった頃の方こそ、彼は苦しんでいたかもしれない。
 気付いてやれなかったのが、不思議だ。
 今までの旭希は、炯が自分の想いをわかろうとしないことに苛立つばかりで、炯が見せないところまで思い遣る余裕はなかった。
 やっと炯に愛していると囁ける毎日を手に入れて。急に視界が開けたことは、自覚していたけど。
 鷹谷の声に耳を傾け、素直にその言葉の意味を考える。まだ若い日に、鷹谷を頼ってばかりいたことを思い出した。あの頃は何でも鷹谷に話し、答えを求めていた。……結局彼は自分を裏切り、自分も怒りに任せて殴りつけたのに。まだ何も変わっていないような気がして、なんだか複雑な気分だ。
『…明後日の朝、そちらに炯を迎えに行きます』
「ああ…頼む」
 旭希は静かに電話を切って。
 炯の髪に触れ、ゆっくり息を吐き出した。



 柔らかく響くピアノの音に、炯は重い瞼を上げる。寝かされていたのは、小さなソファー。ピアノのそばにこれを置きたがったのは、炯だ。ここが一番、音の響く場所だから。
 メガネを外した視界はぼんやりと滲んでいたが、彼の姿だけは鮮明に描くことが出来る。ピアノの前に座る旭希は、ジーンズに足を通しただけの格好で、締まった上半身を晒していた。
 炯は身体をうつ伏せ目を閉じて、旭希の奏でる音に耳を傾ける。
 心地いい音は螺旋を描くように、少しずつ天へ昇っていくような気さえした。ふわふわと、周囲の重力を吸い取って……。
「…目が覚めたか?」
 声をかけられ、炯は上半身を起こした。
 切れ長の目が、優しく笑みに曲線を描いて、炯を見つめている。
「…聞いたことないメロディだね」
「ああ、適当に弾いてる」
「書きとめとけばいのに」
「こんなもの、作曲のうちに入るか」
「そう?…好きだけどな…」
 もぞもぞと動き出した炯は、ぺたりと冷たいフローリングに手をついた。掛けられていたブランケットを羽織ったまま、旭希のそばまで這い寄る。
 そのまま旭希の顔を見上げて。どうした?と首を傾げる彼の足に触れた。ペダルを踏むのを邪魔しないように、そっと触れるだけの場所で、炯は自分の手に頭を乗せる。
「…ごめん、って謝らない方が、いい?」
「そうだな…オレから謝るのも、お前から謝るのも変だしな。お互いやめとくか」
「…わかった」


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