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[Novel:11] -P:08-


 いま何時だろうと考え、どうでもいいことだと、炯は集中しそうになった思考を霧散させた。
 身体と同じくらい、心の方も疲れていた。
「…オレがピアノ続けてたら…」
「ん?なに?」
「いや、オレがさ。あのままピアノ続けてたら、少しはお前の気持ちがわかるのかなあって。思ってたんだ」
 今は炯のために弾いているだけだから、そうやって身体や心を傷つけるほど、自分を追い込んで何かを生み出す炯が、わからないけど。旭希もクリエイターの立場にいたら、もう少し的確に手を伸ばしてやれたのかもしれない。
 炯は何度かまばたきをして旭希を見つめ、ふうっと息を吐いたまま目を閉じる。
「…僕は旭希がピアノやめてくれて、良かったと思ってるんだけどな…」
 ぼそっと呟く言葉に、旭希はやんわり笑った。
「なんだよ、言ってることが違うじゃないか。オレのピアノで舞台作るんだろ?」
「そうだよ。いつか、ね…。相応しい舞台を書ける環境があったら…。それはそうなんだけどさ…でも旭希がピアニストになっちゃったら、僕の知らないところでたくさんの人が、旭希のピアノ、聞くだろう?」
「まあ、そうだろうな」
「…嫌だよそんなの…」
「炯?」
 拗ねるような言葉は、甘い響きを滲ませている。
「だって…。旭希は僕を想うときにしか、ピアノ弾かないって言ってたじゃない」
「ああ…」
「なんだか僕のこと、言いふらされてるみたいだし…」
 今だって、炯を愛しているのだと言って憚らないのだから。
 照れているのか炯は、ちらりと上げた視線を、すぐにそらせてしまった。旭希は片手を鍵盤から離して、炯の髪を撫でる。
「恥ずかしいか?」
「当たり前だろ…。…それに」
「ん?」
「…旭希が僕のことを想わずに弾いてたら、それはそれで…嫌だし…」
 子供のような独占欲を告白され、旭希は笑い出した。
「なんだよ〜…笑わなくてもいいじゃない」
「ごめん、なんか…そんな可愛いこと言うと思わなかった」
 拗ねるなよ、と髪を引っ張って。旭希はふうっと息を吐き出し、再び音を奏で出した。
「…Fly Me To The Moon、だね」
 目を閉じて聞いている炯は、知らなかったけど。旭希は辛そうに眉を寄せて、ピアノを弾いていた。
 炯の言うように、旭希はここに座るとき、炯のことしか考えていないし、炯を想う事とピアノを弾くことはすでに区別がつかないほどだ。
 来週一週間、何度自分はここに座り、ピアノを弾き続けるのだろうかと。思うほどに、気が塞ぐ。
 その曲を弾き終わった旭希は、鍵盤から手を下ろした。
「…旭希?」
 いつもは立て続けに音を奏でるのに。
 旭希は不思議そうに顔を上げた炯の髪を、優しく撫でてやった。くせの強い炯の髪は、少し指を絡めてやると、懐くように離れなくなって。そんなところまで、愛しい。
「…月には、連れて行ってやれないけど」
「え?なに?」
 Fly Me To The Moon…私を月に連れて行って。星の中で遊ばせて。…それはキスが欲しいという意味なのだと、この曲は歌っている。
「来週から一週間…旅行、行かないか?」
「旅行って…一週間?…仕事は?」
 曖昧に笑う旭希は、答えようとしなかった。炯は渋い顔で首を傾げている。
「でも、原稿上がってないしなあ…」
「今のままじゃ、どうせ上がらないだろ?」
「…どうせって…そうだけどさあ…」
「いいじゃないか。明日、調整してさ。明後日から」
「急に、なに言ってんの…」
 驚く炯の前で、旭希は楽しそうな笑顔を見せる。
「気分転換になるだろ?」
「なるけど…」
「気になるなら、持ってけよ。原稿」
「旅先で仕事すんの〜?」
「じゃあ、置いて行くか?」
「むう…持っていく」
 嫌そうに頷いた炯の肩を、優しく叩いて。旭希はまたピアノを弾き出した。
「ねえ、どこ行くの?」
「さあ?」
「さあって…」
 楽しげなリズムの曲を弾きながら、答えを返さずに笑っている。その顔を見上げて、炯は仕方ないなあと溜息をつきながら、頬を緩めていた。



 翌日の調整は、案外簡単についた。
 気が触れたように暴れた炯を見ていたからかもしれない。応じてくれたのは、あの時そばにいた制作部の仲間だ。炯以上に、周囲を説得してくれて。
 思わぬ形で手に入れた休暇を、炯は楽しみにしていたけど。炯の顔を見るときは微笑むくせに、時折見せる旭希の表情が、気にかかっていた。


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