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[Novel:11] -P:09-


 何かを諦めるような、何かを諦めきれずにいるような、切ない表情。
 出掛ける前の夜、旭希は狂ったように炯を求めてきた。普段は翌日に差し支えるからと、無理強いしたりはしないのに。何度しても唇を求められたし、泣きそうな声で「愛してる」と囁く旭希は、炯を抱き締めて離さない。
 困惑する炯が全てを知ったのは、翌朝だ。
「…旭希、荷物は?」
 出掛けるその時になっても、なにも用意していない様子だったから。だるい身体を持て余しながら聞いた炯は、自分の荷物を持ってくれている旭希に、玄関まで導かれた。
「旭希…?」
「なあ、炯」
「…なに…」
「オレはもう、正しいとか間違ってるとか、考えるのをやめたんだ」
「どういう意味?」
 ドアノブを握る旭希は、この寒い季節にコート一枚羽織っていない。
「オレの中にあるのは、お前が好きで、愛してて、大切で。それだけなんだって、やっとわかったから」
「ちょっと、旭希?何言ってるのかわかんないって!」
「自分を信じることにする」
「だから!そうやって自己完結で喋るなよ!」
 声を荒げる炯の前で、ドアが開かれた。
 旭希の視線をたどった炯は、目を見開く。

 閑静な住宅街に、不似合いなほど大きな車が止まっていた。翼を開いたようにドアを開けている、真っ黒なメルセデス。存在感は大きさだけが理由ではない。
 街中ではあまり見かけないスタイルの車は、メルセデスではなく普通、マクラーレンと呼ばれる。それは目を引く流麗な姿よりも、性能に大きく起因しているだろう。ちまちまと街中を走るより、サーキットでも走らせる方が、才能を開花させる車。
 スウィングドアの横に寄りかかっていた人物は、二人の姿を見つけて身体を起こした。膝丈のコートに黒いハイネックのニットを着た、ラフな出で立ち。いつもは撫で付けられている髪がゆったり流され、零れて目元にかかっている。
「…た、かや…さん」
 炯はその名を口にして、呆然と旭希を見上げた。笑みを納めた旭希はしかし、鷹谷を睨みつけてもいなかった。
「どういうこと…なんで…?」
 立ち竦む炯の手を引いて、旭希が鷹谷に近づいていく。話がついているのか、二人は一言も交わさない。
 先に荷物を受け取った鷹谷は、全て承知しているとばかりにそれを中へ運んだ。
 慌てる炯の手を強く握っていた旭希は、大丈夫、と囁くように炯の頬に触れる。
「なんで?…旭希、どういうこと…」
 触れるだけのキスを落とされても、炯は混乱して目を閉じることさえ出来ない。どうして、なぜと。同じ言葉ばかりを繰り返す。
「炯…」
「旭希…どうして…」
「待ってるから。行っておいで」
「なにが?!どこへ行くんだよ!」
「さあ…?それは、彼だけが知ってる」
 なあ?と笑う旭希の視線の先で、鷹谷も肩をく竦め、笑っていた。
 旭希は握り締めていた炯の手を、力強く引いて鷹谷の方へ差し出した。
 鷹谷の大きな手が、黙って炯の手首を掴むと、旭希の手は離れていく。
「旭希?!」
「…一週間だぞ。忘れるなよ」
「忘れませんよ」
 じろりと睨む旭希に、鷹谷は苦笑いを浮かべている。旭希の瞳にも、憎しみは欠片さえも浮かんでいなかった。
 身体を押され、炯は助手席に押し込まれた。抗う気力もなくして、呆然と旭希を見つめている。鷹谷が何も言わず、炯のコートのポケットから携帯電話を取り上げても、見ているばかりで言葉が出てこない。
 羽ばたくのを待っていたドアが、静かな音とともに片翼を閉じて。旭希のそばに戻った鷹谷は、手にしていた携帯電話を旭希に渡してしまう。わかっていたのか、旭希も黙って受け取った。
 主を迎え入れ、翼を閉じて高性能な音を轟かせた車は、風のような速さで走り出した。
 見送る旭希は、ずっとその場に立ち尽くしている。
 炯は身体を捻って、旭希を見つめていた。遠くなる姿が見えなくなってもしばらく、炯の視線が前を向くことはなかった。

「いい加減、シートベルトを締めろ」
 もうすでに、旭希の姿など見えてはいないのに。ずっと後ろばかり見ている炯は、久し振りに聞いた鷹谷の声に促され、渋々前を向いた。
「…どういうことなんですか?」
「久しぶりに会って、他に言うことはないのか?」
「…僕は旭希に…見捨てられたんですか?」
 鷹谷の問いかけに答えもせず、俯いている炯は鷹谷を見ようともしない。可笑しそうに笑う鷹谷の声が、車内に響いていた。
「本当にそう思うのか?あの旭希さんが、お前を見捨てると?想像できるか、そんなこと」
 ありえないだろう、なんて笑うのは、どうして?
「だって旭希、あなたに僕を引き渡したじゃないですか…」
「そうだな」


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