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[Novel:13] -P:01-


 まるで子供だな、と。鷹谷(タカヤ)は笑みを浮かべたまま、助手席に座る炯(ケイ)の頬に触れていた。
 深い眠りに落ちている彼は、鷹谷が手を伸ばした時、んんっとむずがるような声を出して僅かに顔を背けたのだ。なのに鷹谷が手を離そうとすると、それも嫌なんだと言いたげに懐いて頭を傾けた。
 無防備な態度に、声を立てず肩を揺らせている鷹谷の隣。炯が眠りに落ちたのは、ちょうど一時間くらい前だ。

 旭希(アサキ)の元を離れてから、ずっとむくれていた炯は高速に入ったあたりでやっと諦めがついたのか、シートベルトをしたまま器用に足を曲げ、助手席で膝を抱えた。それでもしばらくは何も言わずに拗ねていたのだが、車に興味を引かれた彼は唐突に「マクラーレンですよね?いつものAMGは?」と。声だけは不機嫌に聞いてきて。あれは社用車だと答える鷹谷に、贅沢な、と呆れた顔を見せた。
 三十分ほど興味深そうにセンターコンソールを眺めていたかと思ったら、今度は静かになって。ぐったりとシートに身を預ける炯は今、唇に触れても起きないほど、深い眠りに落ちている。

 東京を離れて走る車は、目的地まであと一時間ほど。高速を降りた鷹谷は、それでも炯を起こそうとはしない。
 最近の炯の様子は、旭希から聞いている。おそらくこんな風に、正体をなくすほど眠りにつくことはなかったのだろう。
 鷹谷と出会った当初、炯は僅かな衣擦れの音でも目を覚ますほど、眠りが浅かった。もちろん、鷹谷を警戒していたせいもある。
 しかし生来眠りの浅い方なのか、熟睡させるには記憶をなくすほど酔わせるか、激しく抱いてやるしかなかったのだ。……その炯が。誰より鷹谷のそばで、深い眠りについているなんて。思えば不思議な話だ。
 軽やかにステアリングを切る鷹谷自身、自分がとても楽しげな顔をしていることを自覚している。しばらく離れている間も、炯のことは気にかけていた。どうせこうなるだろうと、予測できていたからだ。

 旭希からの電話を切ったとき、聞こえていたのだろう、そばにいた秘書の橘(タチバナ)が「なんですか一週間って」と不機嫌に呟いた。まあ、鷹谷に言われて時間を確保できないほど、無能な男じゃない。社長の自覚がない、無茶苦茶だと。文句を言いながらも、橘はいま、社で鷹谷の代行業に追われているはずだ。
 鷹谷もまさか自分が炯の為に、ここまでやるとは思っていなかった。
「…まだ着かないんですか?」
 寝起きの、不機嫌な声。
 いつの間に起きたのか、炯が物珍しそうに窓の外を眺めている。興味津々の表情なのに、声だけが不満そうなのは、もういっそ意地なのだろう。
「そろそろだ。…よく寝られたか?」
「別に」
「その様子では、寝ている間に何をされたかもわかっていないようだな?」
 意味深な鷹谷の言葉に、はっとした炯はコートの胸元をかき合わせるが。もちろん、車を走らせ続けていた鷹谷が、そんなことを出来るはずもない。少し考えればわかりそうなことなのに。
 声を立てて笑う鷹谷の横顔に、炯は頬を赤くする。
「からかったんですねっ?!」
「相変わらずだな、お前は」
「やめてくださいよこういうイタズラ!似合わないんですからっ!」
 相変わらずはこっちのセリフだと、炯はぷいっと顔を背けて窓の方を向いてしまう。そうして、ちくりと痛んだ胸を押さえた。
 まるで以前のまま何もなかったかのような言葉の応酬だったな、と。緑が濃くなっていく窓の外を眺め、炯は溜息を吐いた。流れていく景色は、どんどん木々に覆われて。山道というよりも、森の中を走っているようだ。
「炯?」
 伺うような声で呼ばれ、髪を弄られる。炯が拗ねると、いつだって鷹谷はこんな風に、謝るでもなく言い訳もしないで、炯の髪を緩やかに引っ張っていた。
 旭希を選んだこと、炯は後悔などしていないけれど。甘い仕草に心が揺らぐのは確かだ。
「ここ、どこなんですか?」
 深い森は、あまり好きではない。でもここはなんというか、深い森にありがちな暗さがなくてどこも明るく、炯の心を塞がない。
「聞いてどうする?帰る手段などないぞ」
「わかってますよ、そんなこと。単にどこかな〜?って。森が深いのに明るくて、いい場所だと思ったから」
「持ち主が聞いたら喜ぶだろうな」
「私有地?…まさかあなたの持ち物だなんて言いませんよね?」
 ありえなくもない気がするのが、鷹谷の怖いところだ。しかし彼は肩を竦めて「残念ながら」と答えた。
「ここの地主も、景観を気に入っていてな。随分と金をかけて手入れをさせているらしい」
「里山とか、こういう森って維持するのに手がかかるんでしょう?」
「ああ。道楽者なんだろ」
 対向車も、後続車もない。ずーっと緑の中を道が続いている。
 炯が風景に気を取られている間に、視界がすうっと開けた。森の中に広い空間。そこには、古くても随分立派な門が待ち構えている。


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