[Novel:13] -P:03-
「そうだったかな」
「二階堂様はこんなおばさんとじゃ、つまらないかしら」
「そんなこと!貴女をそんな風に呼ぶ人はいないでしょう?失礼だとは思うんですけど、僕お会いしたときから可愛い方だなあって、思ってたんですよ」
「あら〜!嬉しいわ。ねえ鷹谷様。私、お茶を立てにお邪魔しても構いません?」
「好きにするといい。…そうだな、美味い茶菓子でも持ってきてもらうか?炯」
意地悪な言葉に、炯が赤くなる。
「だから、どうしてあなたはそういう…いちいち意地の悪いことを…」
恨みますよ、と上目遣いに睨む炯のことを気にした風もなく、鷹谷は女将に「こいつは砂糖のない国で生まれたんだ」などと告げていた。
二人の様子には旧知の仲が知れる、程よい距離感があった。大人同士の雰囲気には、周囲を排除しがちなものもあるが、この二人はそうじゃない。今の鷹谷を見て、誰がヤクザだなどと思うだろう?炯は不思議そうに鷹谷を見ていた。こんな風に優しく笑っているのを見たのは初めてだ。
たわいもない話をしながら渡り廊下を通ると、少しだけ水の音が大きくなる。
「こちらでよろしいですか?」
「ああ。突然だったのに、悪かったな」
「悪かっただなんて、本当は思っていらっしゃらないくせに」
くすくす笑う女将が、すうっと引き戸を開ける。開けた視界に、炯は目を瞠った。
「気に入ったか?」
鷹谷の、楽しげな声。黙って頷く炯は、そこから目が離せない。
「入りなさい」
「…いいんですか?」
「お前のために用意させたんだ。遠慮することはない」
女将と鷹谷に前を開けられ、炯はなにか柔らかい雲の上でも歩いているような足取りで彼らの前を通り、中へ入った。
靴を脱いで、足を踏み入れて。そのまままっすぐ、テラスへ向かう。
この旅館には元から客室が少ないのだが、鷹谷が用意させた部屋は、一番奥の離れ。心を疲れさせてしまっている炯には、出来るだけ誰にも会わない空間が必要だと思ったせいだ。
アンティークの古家具が迎えてくれる部屋には、女将が言っていたように広いテラスがあって。清流を見下ろす開放感に、炯は吸い寄せられていく。板の間と畳敷きの空間が見事に融合した部屋は、床に寝転がっても奥に見えているベッドに横たわっても、きっと心地いいだろう。
深い緑と、優しい水流の音。呆然と眺めている炯を優しく見守る鷹谷に、顔なじみの女将は耳打ちするようにそっと囁いた。
「随分と可愛らしい方ですのね」
「ああ見えて、キレ者の物書きなんだがね」
「貴方がどなたかを伴っていらっしゃるのは初めてでしょう?それも男性だとお聞きしておりましたから。どんな怖い方がいらっしゃるのかと思っておりましたのよ」
テラスを縁取る木製の珊に手を置いて、空を見上げる炯のほっそりとした後姿。鷹谷の素性を知っているだけに、同行者はきっとその筋のものだろうと思っていた女将は、驚きが隠せなかったのだ。もちろん、プロなので顔に出すようなことはしないが。
「お食事はいかがなさいますか?」
「あれが疲れ果てているのでね。軽いものがいいだろう」
「承知いたしました。でしたら、ご連絡いただければ三十分以内に」
「わかった」
言い置いて、鷹谷もテラスへ歩いていく。気配に振り返った炯は、戸惑ったような、けれどとても嬉しそうな顔をしていた。
「気に入ったようだな」
「川が、凄く近いんですね」
「この離れは、半分川の上にせり出しているからな」
「そうなんですか?外からも見てみたいな」
「明日にでも、案内してもらうといい」
細い腰を引き寄せ、メガネを取り上げる鷹谷の顔を見つめて、炯は目を閉じた。落ちてくる唇が、しっとりと炯を包んでくれる。
反則だ、と。心の中で呟いていた。
こんな美しいところへ連れて来て。喜ぶ炯を、あまりに優しい目で見ているから。そんな風にされると、弱い今の自分では逆らいきれない。
はたりと扉の閉まる音。
――しまった二人じゃなかった!
慌てて離れる炯に、鷹谷が堪えきれずに笑い出す。
「ちょ…だって!」
「だっても何も。こんな人里離れた温泉の、しかも離れに男が二人で泊まるんだぞ。わからない方がどうかしているだろう?」
「だから〜!それとこれとは違うでしょう?!知られていいとは思っていても、見られていいとまでは思ってないんです!」
赤くなって、捲くし立てた言葉。炯は自分のセリフにはっとなって、急に顔色を悪くした。
「……炯?」
「同じこと、言った……」
忘れてたつもりじゃないけど。ぎゅうっと胸を締め付ける思いに、炯は眉を寄せる。