[Novel:13] -P:04-
「僕…旭希に今と同じこと、言ったんです…」
「そうか」
「散歩してて…旭希がキスしてきて…それで」
「旭希さんも、大胆な人だな」
たとえば、旭希の前でこんな風に鷹谷の話をしたら、彼はどんなに傷つくだろうかと思うのだけど。
炯は鷹谷を見上げる。
まったく意に介した様子もなく、鷹谷は笑みさえ浮かべて炯を見下ろしていた。
「…怒らないんですか?」
「何をだ」
「僕が旭希の話をするの…嫌じゃないんですか?」
「おかしなことを。お前が旭希さんを選んだ場には、私もいたんだが?」
「それは……そうですけど」
だからこそ。鷹谷を選ばなかった炯が、無神経に旭希のことを話すのに、彼は苛立ったりしないのだろうか。
躊躇う炯の、繊細な手を取って。そこに口づけた鷹谷は、ふるっと唇を震わせる炯を見つめた。
「身体が冷える。中へ入りなさい」
「鷹谷さん……」
「時間ならある。話は聞いてやるから、とにかく入れ」
炯の手を引いて部屋へ戻った鷹谷は、からりと戸を閉めて炯を中央の和室に座らせる。
外から静かな声が聞こえて、鷹谷から車を預かった男が荷物を運び入れた。何も言わないまま、炯はずっと机の灰皿を見つめている。
効果的に使われている、格子や和硝子。不思議な意匠の欄間に、普段の炯なら目を輝かせるのだろうが。今はさすがに、そんな気にはなれない。
男が出て行った気配に顔を上げると、正面に鷹谷が座った。彼が懐から取り出したのは、見覚えのある革張りのシガレットケース。中に並んだブラックストーンの甘い香りを思い出して、炯は眉を寄せた。
「どうした」
「やっぱりそれ、吸ってるんですね」
「タバコの銘柄など、そうそう変わらんだろう?」
甘い煙を燻らせ、鷹谷は慣れた手つきで茶を淹れ始めた。彼のマンションに炯の居場所があった時から、変わらない。コーヒーでも、日本茶でも、こだわりがあるのか鷹谷は必ず自分で淹れる。
目の前に湯飲みを置かれた炯は、メガネを外して隣に置いた。机に肘をついて、頼りない手に頭を押し付けると、堪え切れなくて涙が溢れてくる。
「あなたに会いたかった……」
震える声で告白する。
何度も何度も思い描いた男がそこにいるのに、炯は顔が上げられない。矛盾していると思う。会いたかったと言うなら、飽きるまで彼の顔を見つめていればいいのに。
「私もだ」
「何度もあなたを思い出して…でも、旭希を裏切りたくなかった…っ!」
愛しているのは旭希だ。旭希だけのはずだ。何度も自分に言い聞かせる言葉は、しだいに傷のついたレコードみたいになっていた。狂ったように同じフレーズを繰り返すだけ。そのうち言葉の意味すら、忘れてしまって。でも、ヒビだらけになった乾いた言葉でも、自分に刻み付けていないと立っていられなかった。
拭っても拭っても、溢れてくる涙が止まらない。立ち上がった鷹谷が隣に座り、炯を引き寄せる。がむしゃらに顔を擦る手は、捕らえられてしまった。
「どうせ誰もいやしない」
「鷹谷さん…っ」
「全部吐き出してしまえ。聞いているのは私だけだ」
自分が全て受け止めてやるからと。鷹谷は炯の目元に唇を寄せた。
もう、本当に。涙腺が壊れてしまったに違いない。子供のように泣きじゃくり、会いたかったと繰り返し訴える炯を静かに抱いて。鷹谷はずっと頭を撫でていてくれた。
旭希の前では出来るだけ見せないようにしている、自分の弱いところをさらけ出して、炯は鷹谷に縋りつく。
支えあっていたいから、炯は旭希の手の届かない傷を、旭希から隠し続けている。どうしようもないことを訴えれば、傷つきあって共倒れになるのが目に見えているからだ。
物書きだからこそ、形にならない不安や、言葉に出来ないもどかしさは、常に炯を襲っていた。作品に対する自信はあっても、観客が受け入れてくれるかどうかなんてわからない。自分の描く世界を、役者達に伝えられるかどうかだって、やってみるまでわからないのだ。炯がつまづけば、劇団のスタッフ、役者、スポンサーまで。全ての人々が巻き込まれる。
きっかけなんかどれも、外側から見ればたわいもないことかもしれない。それでも不安は必ず大きな暴力になって、炯を押し潰そうとしていた。
旭希は勘のいい男だ。傷のありかを察してしまえば、きっと手出しできない自分に苦しむだろう。愛しているからこそ、頼ることは許されない。炯のジレンマは、堂々巡りを繰り返して、結局炯自身を追いつめていた。