[Novel:14] -P:01-
「…勿論、覚えていますよ。あなたとの約束は」
鷹谷(タカヤ)は溜息を吐いて、運転席から見える大きな建築物に目を遣った。一見すると目的のわからない、変わった意匠の建物。
東京に着いたのは、ほんの数十分前だ。しかし助手席にもう炯(ケイ)の姿はない。
「…私もそちらへ送り届けたかったんですが。…どうしてもと言ったのは、炯ですよ」
今日は旭希(アサキ)と交わした約束の期限。鷹谷としても、当初は一週間前旭希に宣言した通り、高沢(タカザワ)の家まで炯をつれて帰るつもりだった。それが出来なくなったのは、なにも鷹谷のせいじゃない。
もうすでに舞台のことしか見えなくなってしまっている炯が、いつものようにワガママを言い出したのは旅館を出てすぐのこと。
「…今はAZ(アズ)の稽古場です」
正確には、その駐車場。
鷹谷さん、このまま稽古場へ行って下さい。
助手席でそう言った炯は、憑き物が落ちたどころか、生まれ変わったかのように明るい表情を見せていた。
自分は旭希に一週間で炯を連れて帰ると約束したのだから、とにかく高沢の家に帰って、それから旭希に送ってもらったらどうだと。もし望むなら、自分が高沢の家から稽古場まで送っても構わないと。
鷹谷だって、言ってはみたのだ。
なのに炯は拗ねた表情をして、運転中の鷹谷の足に手を乗せ、メガネを外し上目遣いなんか見せて「どうしても、ダメですか?」などと。計算でやっているならともかく、炯の場合は天然だから恐ろしい。
「言いましたよ、私は。連絡ぐらい入れたらどうだとね。…いや、ですから。自分の携帯はあなたに渡してあるんだから、代わりに頼むと言って、降りて行ったんです」
電話の相手は、もちろん旭希。
案の定、仕事の休みをこの日に合わせ、炯の帰りを待ちわびて、寝不足にさえなっている旭希の不満は、鷹谷にもよくわかる。わかるがしかし、そんなことを鷹谷に愚痴られても。
稽古場の駐車場に着いた時、鷹谷は旭希に連絡を入れておけと、自分の携帯電話を差し出してやった。しかし炯は覚えたての操作で自らスウィングドアを開け、派手なアクションで開く翼のようなドアを楽しげに見つめながら「代わりにお願いします」と呟いたのだ。
車を降りる瞬間、炯が見せた笑顔の爽やかだったことと言ったら。一週間会えていない上に後回しにされと旭希が知ったら、相当に落ち込むだろうと思って。鷹谷は同情すらしてしまう。車を離れ駆け出した炯の足取りは、どこまでも軽かった。
迎えに出てきたスタッフに、その時から指示を飛ばしていた横顔。祭りを待ちわびるような子供の無邪気さと、何百人という関係者への責任を負う頼もしさと。
稽古場の入り口でくるりと振り返り、また明日とでも言うように手を振られてしまったら、鷹谷はもう笑うしかなかった。
「それは、向こうへ聞いて下さい。あなたならここの電話番号もわかるんでしょう?」
苛立たしげな、旭希の声。
さもありなん、とは思う。
「…わかりました。なら、前に来た私の自宅へ来ますか?」
直接自分に会え、会って炯の様子を聞かせろと迫る旭希。仕方なく鷹谷が自宅で会うことを了承すると、せわしない電話は一方的に切れた。旭希は今頃、車のキーを掴んで飛び出していることだろう。
携帯電話を閉じ、鷹谷はもう一度溜息を吐く。苦笑いを浮かべたまま、車を出した。
自分で立っていられないほど精神の均衡を崩した炯の為に、旭希が鷹谷へ要請したこと。旭希では与えられない部分の平穏を、炯に与えてやること。
一緒に悩む旭希ではなく、炯がどんなに抗いやつ当たっても、けして揺るがない鷹谷。炯を自分だけでは支えられないと、そう呟いた旭希の声は悲鳴に似ていた。
本人たちがどう思っているのかは知らないが、鷹谷にとっては炯も旭希も、守ってやりたい存在に変わりはない。
炯はもとより、旭希だって敬愛する男の息子であることは間違いないのだ。佐久間(サクマ)がどれほど旭希を溺愛しているか、鷹谷は誰よりも知っている。
家庭教師を頼まれた際、初めて会った中学生の旭希は、今よりもずっと子供っぽくて、自分を取り巻く大人たちの思惑に必死に抗っていた。
あの時、旭希が鷹谷のことを最終的にどう思ったかはともかく、鷹谷は鷹谷なりに当時、旭希を可愛がっていた。
父親が望むように旭希が佐久間の家に入るというなら、出来る限り守ってやりたいと思ったのも事実。そしてその気持ちは、どうやら今も変わらないままだ。
旭希も父親の佐久間も今のところ考えていないようだが、鷹谷は密かに佐久間組の次期組長を、旭希に継がせることが出来ないものかと考えている。あの穏やかな外面と激しい気性は、こちらの世界に向いていると思うのだ。今の佐久間組に必要なのは、旭希のように昔堅気な頑固さと、リベラルな物の考え方を両方持ち合わせている人間なんじゃないかというのが、鷹谷の思惑。