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[Novel:14] -P:02-


 まあ、どう考えても旭希は嫌がるだろうし、内部からの反発も避けられないだろうが……先は長い。鷹谷も今はまだ、本気で動くつもりはなかった。



 一週間ぶりに帰った自宅で、鷹谷は時計を確かめた。もう三十分もすれば旭希が、ここへ飛び込んでくるだろう。
 荷物を置いてダイニングテーブルに目を遣れば、そこには山のような書類が積んである。「おかえりなさい。明日までに確認だけでもお願いします。――橘」と。見落とすことが出来ないよう付箋紙が、直接テーブルに貼り付けられている。苦笑を浮かべた鷹谷は、ソファーの方へコートを放り出した。
 ――段々と巧妙になってくるな。
 橘ほど優秀な秘書を雇っている者は、カタギの会社でもそういないだろう。
 鷹谷のスケジュールを管理するのは、並大抵の仕事じゃない。カタギを装った会社の社長でもあるし、もちろんヤクザの幹部でもある鷹谷は、急な予定変更や公に出来ない行動も日常茶飯事だ。しかも鷹谷本人が気紛れだときている。時には社長代行をし、ボディーガードの代わりもし、運転手までやらされて。文句ひとつ言わない橘にとってはもう、タバコをシガレットケースに移し変えることや、愛人の送り迎えすら、いっそついでというものなのだろう。
 今日だって、その手際は見事なものだ。どうせ帰って来ても社へ寄ったりはしない鷹谷の行動を先読みし、橘はここへ仕事を持って来ている。
 書類を一枚取り上げ、目を通してみた。
 鷹谷が昨年買収し、采配をとった会社が思い通りの業績を上げている。喜ばしいことなのだが、鷹谷は自分がどこか不満に感じているような気がして眉を寄せた。
 ビジネスは嫌いじゃない。マネーゲームは自分に向いていると思う。しかし自分を覆すほどの存在を感じられなくて、どうにも仕事が物足りない。鷹谷は時々、こんなことがしたくて佐久間に付いて来たんだろうかと、疑問に思うことがある。
 行くあてのなかった鷹谷を拾い、世の中の渡り方を教えてくれたのは佐久間だ。大学を出してくれたことも、今のポジションを与えてもらっていることも、感謝しているけど。ほんのたまに、ただのチンピラでいても良かったような気がしてしまう。
 鷹谷が出会った頃の佐久間組長は、今ほど大きな組織のトップじゃなかった。まあ佐久間組を今の規模にした一翼は、確実に鷹谷が担っていたのだから、あまりワガママを言うべきではないのかもしれないが。
 社会に背を向け、街の裏通りでくだらないケンカに明け暮れ、女から小遣いをせびり取って、いつか誰にも知られず野垂れ死ぬような。生まれた家を飛び出したとき、まだ少年だった鷹谷が望んだのは、そんなつまらない一生のはずだ。
 ――そういえば、笑っていたな……
 鷹谷は頬を緩めて、ビールのプルトップを上げる。その話を聞かせてしまったのは、自分でも思いもよらぬことだったけど。聞かされた炯の方は面白そうに笑っていた。

 ――そんな惨めな死が望みだったんですか?お伽噺みたいだなあ……入れ替わりたかった王子様みたいじゃないですか。無理ですよそんなの。だって似合わないでしょ。自分で似合うと思います?

 笑って。あなたにも子供の頃があったんですね、と鷹谷を見上げた炯。鷹谷の中で炯の存在が変わり始めたのは、あの時からだ。旭希の焦がれる人物との情事という以上に、炯自身に興味が沸いた。
 最初は本当に、ただ面白そうだと思って手を出しただけ。はっきりとした言葉で旭希から告げられたことはなかったが、十五歳の旭希が炯に焦がれていたのは、言葉の端々からわかっていた。その後の報告書で見る限り、彼らが友人以上の関係になっているとは思えなかったが、それでも炯の傍らでひっそりと彼を見守っている旭希が、不思議で仕方なかった。
 あんなに激しい気性の持ち主なのだから、思い余って押し倒してしまうぐらいのことはやるだろうと思っていたのに。

 離婚や仕事のことでボロボロになっていた炯を拾い、気紛れに抱いてみて。男を知らない身体に、旭希が手を出していないことを確信して。いつか旭希にバレるかもしれないと、そんなくだらない戯れだったはずなのに。炯の存在はいつしか、手放せないほど愛しいものになっていた。
 炯は何を構うこともなく、ふわりと人の心に入り込んでくる。真っ直ぐに人を見つめ、歪みのない目で相手の真実を見つけ出す。話すつもりのない言葉でも、先回りして見つけ出し、やんわりと相手を導いてゆく。
 心の深いところに繋いでおいたはずの気持ちを晒してしまった方は、思わずぎくりと怯えるのに。炯はそんな怯えさえも柔らかく受け止めてしまう。
 炯の目に映っている世界は、あまりにも温かく優しい。炯の口から語られる人々は、誰もが淋しく、愛しく、あまりにも無垢であまりにも残酷だ。彼の言葉に耳を傾けるうち、鷹谷は炯が自分と同じ世界に生きていることすら、信じられなくなった。興味を引かれ、炯の素性を調べ上げた鷹谷の知ったもの。


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