甘く接吻けて【特集】前編 P:01


 目を閉じたまま、高い位置にあるシャワーヘッドを見上げていた二階堂炯(ニカイドウケイ)は、降ってくる温かい雨の中で溜息をついた。
 そのまま頭から湯を浴び、くせの強い髪についていた泡を洗い流して。少し嫌そうに瞼を上げ、ちらりとバスルームの鏡を見る。
 ――なんてゆーかさ……
 相変わらずの貧弱な身体には、執拗に散らされた赤い痕。昨夜つけられたものだ。

 ――あんなに独占欲が強いくて、よくこんな関係を受け入れる気になったよね……

 もう、かなり今更なことだけど。
 背は高いが、確実に標準体重などクリアしているはずのない細い肢体。流れる血は日本人のものだけだと思うが、白い肌は焼いても赤くなるだけだし、髪の色も瞳の色も茶色くて、どこか浮世離れした印象があった。
 そんな炯の身体を欲しがる人間は、二人いる。
 一人はこの痕をつけた張本人、高沢旭希(タカザワアサキ)。もう一人はこの痕を見せ付けられるはずの男、鷹谷慎二(タカヤシンジ)。……まあ鷹谷のことだから、旭希のつけたあからさまなマーキングなんか見たって、面白がるだけなんだろうけど。



 劇団では主宰として、脚本と演出を手掛けている炯だが、私生活での彼は一児の父でバツイチだ。しかも舞台を作ることにしか能のなく、普通の生活では何ひとつ役に立たない男。……もちろんそれは炯自身の認識で、旭希と鷹谷にはそれぞれの言い分があるのだが。
 そんな炯を、二人は互いに譲らず、しかし互いを認めて、まあるい三角関係を築いてしまっている。なんでこんな円滑なんだろう?と、疑問に思っているのは炯一人。旭希と鷹谷はそれぞれに、誰一人欠くことが出来ない、甘く不安定な関係を受け入れていた。
 非常に脆い心の持ち主である炯には、長い付き合いで自分の全てを知り、同じ家で暮らしていて、いつも傍にいてくれる旭希という支えが、どうしても必要で。
 危なっかしいほどの感性を持ち合わせている炯は、極道という自分とは全く別の世界に住み、日常から自分を連れ去ってくれる、鷹谷という支えなしで舞台を作ることなど、今はもう出来なくなっている。

 そんな炯の魅力をひとつ上げろと言われたら、二人はきっと悩むだろうが、おそらく同時に「目」と答えるだろう。
 きれいな造作の顔におさまった淡い色の瞳は、かけている眼鏡の奥で、どんなときにも優しい色を湛えて世界を見つめている。柔らかい曲線で形作られた大きな瞳はいつも少し潤んでいるような、甘い艶を見せるのだがその実、鋭い洞察力を備えていて。じっと見つめられれば、大概の者は即座に両手を上げ、炯の元に屈するだろう。
 ……是非とも自覚しないでいてもらいたい、と。旭希と鷹谷が思っていることは、炯の知らない話。

 自分の魅力を少しも認めていない炯自身は、自分のことを「ワガママ」という一言で片付けてしまうが、本当にそんなただのワガママだったら、旭希が二十年近い想いを持続させることはなかった。鷹谷とて、両手に余る女性関係の中で、炯を優先してやることなどありえない。
 今のバランスに収まるまでの三人には本当に色んな紆余曲折があったが、二人から向けられる愛情に一人首を傾げる炯を、旭希と鷹谷が引きずるかのようにして、三人の関係は今も続いている。
 
 
 
 きゅっとシャワーの栓を回し、炯は髪をかき上げた。バスルームを出て、身体を拭いて。出来るだけ首筋の隠れる服に手を通す。こんなことをしても、脱がされてしまえば鷹谷にはすぐバレてしまうことだが、せめてもの抵抗だ。
 髪を拭きながらリビングに戻ってきた炯は、タバコを咥えて時計に目を遣った。鷹谷が迎えに来るまで、あと二時間くらい。今日の鷹谷からの誘いを炯に伝えたのは、旭希だった。
 ――ほ〜んと、意地悪だよねえ
 わざわざ旭希に言わせた鷹谷が、どんなに面白がっていただろうとか思うと、炯にまで笑みが浮かんでしまう。鷹谷の目論み通りに、ものすごーく嫌そうだった旭希の顔を思い出して。

 一週間前のことだ。携帯電話で誰かと話しながら帰ってきた旭希は、炯の顔を見るなり眉を顰めた。そうして会話の相手に「わかったっつってるだろ」と荒っぽく伝えるや否や、炯に「お前、十四代とかって酒、知ってるか?」と聞いてきて。
 十四代といえば、芳醇な味と希少性のためになかなか手に入らないとされている銘酒。頷いた炯が「…もしかして、鷹谷さん?」と尋ねる。きらりと光った炯の瞳に何を見たのか、旭希はいっそう不機嫌そうな顔になっていた。
 鷹谷と旭希の決定的な違いのひとつが、酒。鷹谷はワクで、旭希は下戸。弱いくせに酒が大好きな炯の相手が出来るのは、自然と鷹谷になってしまう。