だからというわけではないのだろうが、珍しい酒を手に入れるたび、鷹谷は炯に誘いをかけていた。絶対に炯の好みを外さない鷹谷のセレクト。炯が目を輝かせるのは、仕方のない話。
飲みたいか?と当たり前のことを聞く旭希に、飲みたい!と炯が当然の答えを返す。携帯電話を受け取ろうと伸ばした指の細い手を、旭希が強く握った。むすっとした表情のまま、けして炯には携帯電話を渡さない旭希。苛立たしそうな旭希が勝手に鷹谷と話をつけ、決めてしまった日時に、炯は逆らわなかった。
それが、今日。
あの時の経緯を思い出していた炯は、肩にタオルを掛けたまま、ぼーっとソファーに座り込む。
テーブルに置いてある灰皿を引き寄せようと手を伸ばした時、ガチャっと玄関の開く音が聞こえた。
この家の鍵は、旭希と炯しか持っていないはずだ。何事だろうと、炯は不思議そうに立ち上がった。
「……あれ。どうしたの?」
きょとんと首を傾げるのは、そこに旭希を見つけたから。図書館司書をしている旭希は本日遅番で、夜まで帰ってこないと聞いていた。自分がいない間に出掛けろと言ったのは、旭希だったはずなのだが。
炯と同じくらいの長身なのに、鍛えた体のせいで細い炯よりも一回り大きく見えるような旭希。骨っぽく見える体つきだが、いつもは炯を軽々と抱き上げてしまえる彼なのに、今は足元がふらついてしまっている。
頼りない足取りでリビングに入って来た旭希は、面倒そうに鞄を置いて、そばの椅子へ上着を放り出した。小まめな旭希には珍しい行動に、炯はますます不思議そうな顔をする。
「旭希……?」
「なんか、だるくてな。仕事にならないから、早退してきた」
「ええっ!大丈夫なの」
「ああ、大したことはない。…時間、まだいいのか?」
手にしていたタバコの火を灰皿に押し付け、駆け寄った炯は、旭希の顔を覗き込んで眉を寄せた。真っ直ぐな長めの前髪に隠されている彼の目は、いつもの鋭さがなりを潜め、少し潤んでいる。なにより男っぽくシャープに削げた頬が、熱のせいで赤くなっているような。
旭希の額に手をあて、炯は驚きに目を見開いた。
「熱いよっ!どうしたんだよっ」
「なんでもないって、ただの風邪だろ。ちょっと熱があるだけだ」
「ちょっとじゃないでしょうが!医者は?!」
慌てる炯の手を自分から離し、旭希は軽く炯の頬を叩いて「そんな顔をするな」と微笑んだ。
「んな、慌てるほどのことじゃないって。こんなもの薬飲んで寝てりゃ治るから」
「でも……」
困った顔で動揺しているが、こういうとき炯ほど役に立たない人間もいないだろう。
旭希は炯の横を通り過ぎ、自分で着替えて自分で薬を探し、自分でミネラルウォーターとタオルに氷枕を用意して寝室へ向かう。その間ずっと後をついて回っている炯なのだが、大丈夫?と聞くばかりで何をしていいかわからず、結局はおろおろしているだけなのだ。
苦笑を浮かべた旭希は「ケ〜イ?」と後ろを振り返った。
「お前ね。オレのことより、自分の支度は済んでんのか?」
「そんな、だって……」
「オレは寝てるしかないんだから、行って来いよ」
「…そりゃ、僕だって自分が役に立たないのはわかってるけど」
「そうじゃないだろ」
ベッドに腰を下ろし、炯を見上げる。まるで炯のほうこそ体調が悪いかのように、彼の顔は青ざめていた。
「俺が何年一人暮らししてると思ってるんだ?これくらいのこと、慣れてるよ」
手にした薬を飲んで、ミネラルウォーターを呷った旭希は「これ頼む」と空になった薬のパッケージを差し出した。そのままベッドに入り横になる旭希のそばで、渡された固いプラスチックのパッケージを握ったまま、炯も膝をつく。
「旭希…なんか、欲しいものとかない?」
「いや、本当に寝てればいいって」
「……うん」
力なく頷く炯の声に、旭希はそうだったと目を開けた。
「炯」
「なに?」
「鷹谷には言うなよ?」
「旭希の具合が悪いこと?」
「ああ。あいつに心配されるなんて、冗談じゃないからな」
「ん、わかった」
「オレのことは気にしないで、行っておいで」
それだけ言うと、旭希はすうっと眠りに落ちていく。
傍らで自分の手を見つめていた炯は、パッケージをそばのゴミ箱へ捨て、携帯電話を取り出して立ち上がった。開いて時計を確かめれば、約束まであと二時間を切ったところ。時間に正確な鷹谷だから、まだこちらに向かってはいないはずだ。キャンセルを伝えようと、炯はアドレスに鷹谷の名前を探す。