【初恋】 P:01


 私、橘(タチバナ)が仕えている男。鷹谷慎二(タカヤシンジ)は非常に微妙な立場の方だ。

 世間一般の認識は、年間数十億という金を動かす投資会社の社長なのだが、ふたを開けてみればヤクザの幹部。我々が所属する佐久間(サクマ)組の中には、社長を若頭と呼ぶ者もいる。
 社長自身はそう呼ばれることが不満らしく、黙って眉を顰めるのだが。
 組長に次ぐ権力を有し、次期組長と目される人物を「若頭」と呼ぶなら、確かにこの人が佐久間組の若頭なのだろう。佐久間組長も鷹谷社長も、否定はしない。
 あくまで社長個人がその呼び名を「気に入らない」というだけだ。

 社長の表看板であるこの会社が、ヤクザの資金調達をしている隠れ蓑だということは、案外世間には知られていない。社員でも知っている者はわずかだし、佐久間組と直接関係を持っているのも我々二人だけだ。
 ただうちの会社は……秘書の私が言うのもなんだが、相当あくどい仕事をしている。だがまあ、あくどいというだけで、違法なことはしていない。それも、鷹谷慎二の手腕と言えるのだろう。

 極力メディアなどへの露出は避けているが、ここまで大きな力を持っていれば、興味を持つ者が現れるのも不思議な話ではなかった。経済誌もさることながら、社長と佐久間組の関係を掴んだゴシップ誌などから狙われることもしょっちゅうだ。まあ、そんな時こそ「佐久間組」という看板が役に立つのだが。
 ……ちなみに正規ルートを使い、真正面から申し込まれた取材の場合は、大変申し訳ないが、真正面から断らせていただいている。
 仕方ないだろう。社長が「面倒だ」と言うのだから。
 だがしかし。
 世間の目を欺いていたいのなら、もう少し何事においても目立たないよう、気をつければいいと。私でさえが思う。

 190を少し超えている長身に、オーダーのブランドスーツが嫌味なくらいに似合っている。時計一つ車一台とっても、社長が身につけるものは超のつく一流品で、人目を引く物だ。しかも本人が恐ろしいほどに整った容姿なのだから、始末に終えない。
 鋭い眼光は極道そのものなのに、男でも惚れるような……実際男にも惚れられる、辛口の二枚目。その辺の俳優では並ぶことさえ叶わない、洗練された所作。
 この人が若い頃、チンピラのようなことをしていたなんて、誰が信じるだろう?佐久間組長に出会うまで、三流のゴロツキだったというのは本人から聞いた話だが。私には今でも想像がつかない。
 私が出会った十年ほど前には、もう現在の鷹谷慎二が出来上がっていた。

 関東有数の広域指定暴力団「佐久間組」若頭、鷹谷慎二。
 自分の手はけして汚さず、しかし対峙するだけでも相手を竦ませる威圧感を放ち、毎月何十億という金を動かしている。電話一本で世界中、どこにいる人間でも命を奪えるとまで、噂される人。
 この人は、恐怖をもって「佐久間の鬼」と呼ばれている。
 佐久間組長が「仏の佐久間」という極道らしからぬ名で呼ばれることに呼応して、ついた呼び名だと聞いている。
 そんな人なのだ。うちの社長は。

 だからこそ、彼の唯一の弱みが世に露見することがあれば、真っ先に殺されるのは私だろう。
 ……開いた口が塞がらなくなるような、物凄く意外なこの人の弱みを知っているのは、私だけなのだから。
 そもそも。その弱み自体に気づいたのは、当の社長自身よりも、私の方が早かった。





 いつも詰めているオフィスから、高速道路を飛ばしても片道三時間はかかる蔵元へ。限定発売されるという大吟醸を「買いに行って来い」と、社長が言い出したのは昼前のことだった。
「これから、ですか?」
「ああ」
「帰りは夜になりますが…」
「構わん」
 決算が目の前という、一年で最も私が社を離れられないこの時期に?
 躊躇する私が、誰か他の者を行かせると、言うより早く、社長は「お前が行け」といつもの無表情で呟いた。
 そのとき、ピンときた。
 社長が私以外の人間を使いたがらないのは、二階堂炯(ニカイドウケイ)という男に関する時だけだ。
「二階堂さんに、頼まれたんですか?」
 ひく、とこめかみが疼くのはこんな問答が初めてではないから。社長にとって今や、仕事のことなど二階堂よりも後回しになってしまっている。

 昔の社長と、今の彼を比べ、どちらがいいかと問われれば、やはり私としても今の社長の方が好きだ。