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 旭希(アサキ)は炯(ケイ)の言葉がよくわからなくて、何度かまばたきを繰り返した。言葉は聞こえているのに、その内容が理解できない。
「なん、だって?」
「うん、だから…翔子(ショウコ)さんから、プロポーズされちゃって…。…なあ、旭希。どう思う?まだ早すぎるかな」
 夏の暑い日。
 過去最高という言葉を聞いたのは、何度目だったろう。旭希は自分の輪郭を流れていった汗が、いやに冷たくて……そんなことばかり、覚えている。



 手を伸ばせば届く位置。ほっそりとした肢体が、まだ空調の効いていない部屋でわずかに上気していた。夏が暑いから?それとも、自分の言葉に浮かされているからだろうか。
 話があると、高沢の家に上がりこんできた炯。帰ったばかりの家は、むせ返るような暑さだった。
 いつもなら喉が渇いたの、灰皿を出せのと煩いのに、今日に限って炯は「先に話を聞いてよ」と旭希を離さず動かなかったのだ。

 甘い色をした炯の瞳。長いまつげが伏せ気味にきれいな光を隠してしまって、いっそう旭希をどきどきさせる。何かを思案するように眼鏡を外した炯の、きれいなきれいな顔。
 唇を舐める仕草は、炯が興奮している証拠だと知っていた。目の前に座る旭希が、上がってしまう体温に空調の設定温度を上げようと、リモコンを掴んだ瞬間だった。
 炯が、求婚されたと告白したのは。

「僕の人生が、欲しいって。全部じゃなくていいから、少しだけ私に頂戴って…。…こういうのってさ、いくら脚本書いたりしてても、なかなか思い浮かばないよね。でもなんか、情けないな…告白シーンなんか何度も書いてきたのに、結局付き合うときも結婚するときも、翔子さんに言わせちゃった」
 息を上げ、掠れがちに話す炯の言葉を、旭希は半分も聞いていなかった。
 その言葉は、覚悟していたはずの言葉だ。
 炯が自分のものにならないなら、いつかは聞かされると思っていた。炯は自分などに目もくれず、誰か素敵な女性と結婚し、幸せな家庭を築くのだと。
 わかっていたから、何度も何度もシュミレーション出来ていたはずのシーンだ。どんな言葉で、いつ自分に言うだろうと。何度だって考えていたのに。
 そんな苦行、まるで役になど立たなかった。
 一瞬になって真っ白になったアタマの中に、炯の笑みを成した瞳だけが映っていた。
 もう、どれぐらい彼を見つめ続けているだろう?どれぐらい自分に、期待するな諦めろと言い続けただろう。

「旭希?」
「…ん?」
「喜んで、くんないの?やっぱまだ早すぎると思う?」
「いや…」
 口が、うまく回らなかった。
 否定したら、やめるのか?どうしてそんなことを聞くんだ。お前の答えなんか、もう決まっているのに?
「…翔子さんがね、今日内定もらったんだって。就活してたでしょ、彼女。大手の商社なんだけどさ…面接のときに、真正面から入社式には姓が変わっているかもしれませんって言ったんだってさ。僕、知らなくて…。それでも内定が出たら、言おうと思ってたって、言ってた」
「…お前」
「うん?」
「なんて、返事したんだ」
 旭希に問われ、炯の顔がぱあっと赤くなる。
 火をつけても居ないタバコを弄りながら、ちょっと照れるように視線をそらした。
 こういう顔が、旭希は一番好きだ。幸せそうで、可愛くて。白い肌に差す赤が、艶かしい。でもこんな顔をさせているのが、自分ではないというだけで。胸の辺りが重くなっていくように感じる。
「えっと…その、一応なんか…やっぱほら、プロポーズって僕の方からするべきなんじゃないかな、とか何とか、いろいろアタマん中ぐるぐるしちゃってさ…。あの〜なんか…えっと。…翔子さんが絶対に泣くような言葉で僕が言うから、待ってて、とか。言ってみたりして」
 赤くなった頬を、炯がごしごし擦っている。照れ隠しの、子供っぽい仕草。あはは、と笑った炯は自分の膝を抱え込んだ。
「…すんのか」
「え?」
「結婚」
「あー…うん、そのつもりなんだけど。旭希は?どう思う?」
 沈んでいた心が、真っ黒な色になって突き上げる。
「オレに聞いてどうする」
「だって」
「決めてんだろ、もう。答えなんか出てんじゃねえか」
「旭希…」
 明るい夏の夕暮れ。部屋の電気さえ点けていなかったことに、その時になってやっと気づいていた。
 ぶうん、と。やっと目を覚ました空調の静かなモーター音が耳障りで、旭希の身体をかきむしる。喉の奥にこみ上げてきた、吐き出したい言葉が何を言わせようとしているのかわからない。