旭希の大きな手でしがみつかれている炯は、きっと痕が残るくらい痛いだろうに。でも静かな声で、語りかけ続けるのだ。
「…知ってるよ?君がずっと、僕を守っていてくれたこと。泣いてるときも笑ってるときも、いつだって旭希はそばで見ていてくれたよね…。…傷つけてよ、旭希。旭希の痛いこと、僕にも分けて…」
せめぎ合う、二つの心。
炯に幸せを与えてやりたい。炯を痛めつけてしまいたい。
「っ!あああっ!」
泣き叫んで、旭希は炯の身体を抱きしめる。
夕闇は、どんどん深くなって。暑い夏の夜に、空調の効いた部屋は寒いくらいで。でも炯の体温を吸い取り、旭希の身体はずっと熱く火照っていた。
どうしようもなく旭希を苦しめ、ずっと痛みをそそぎ続ける足枷には、鋭い爪がついている。そこには炯の名前が刻まれていた。
ずっとだ。
きっとこの先もずっと、この足枷は旭希を繋いでいるだろう。
泣きすぎて痛む頭。熱の冷めない額に手を置いた旭希は、真っ暗な部屋で自分の腕の中を見下ろした。張り詰めていた自分と同じくらい、心を震わせてそばに居てくれた炯は、静かな寝息を立てている。
何年くらいしたら、炯の寝顔に微笑むことが出来るんだろう。それは途方もない夢にも思えて、旭希はそっと身体を起こした。
自分の部屋から逃げ出して。
全然涼しくならない夜の街を、静かに歩き始める。
三日が過ぎても、いっこうに重い気持ちは消えてくれない。苛立ったままの旭希は、うんざりした顔で煩い女を振り返った。
「聞いてるの旭希っ!私のこと、どう思ってんのよ?!なんで連絡くれないの?!私ずっと待ってたんだからね!!」
きりきりと高い声。
ため息をつく旭希に、彼女の怒りはボルテージを上げていく。
「彼女を避ける理由が、浮気以外にあるの?!どうなのよ!」
どうしようもなく面倒で、旭希は苦い笑みを浮かべた。
「誰が彼女なんだ?」
「っ!なにそれ!!」
「オレはお前のこと、彼女だなんて思ったこともなければ、付き合ってる記憶もないけど?…っつーか、お前。なんて名前だっけ?」
旭希の言葉に、女の顔色は赤黒くなって醜く歪んだ。
「最低っっ!!」
ぱん!と響いた頬の痛み。駆け出していく後姿を、なんの感慨も抱かずに見送った。ああやって相手に不満をぶつけられる人間は、幸せだとさえ思う。
「最低、ね」
彼女はきっと、一晩泣き明かすだろうけど。旭希を恨めば、立ち直ることが出来るだろう。
「あんな酷いことばっかりしてるの?高沢くん」
唐突に声をかけられ、旭希は息を吐いて自分の足元を見つめた。声の主を、知っている。今は会いたくない人物だ。しかし声をかけた女性は、いつも通りはきはきした様子で旭希の前に回りこんだ。
「…なんか、用ですか?和泉さん」
見下ろす美しい女性。和泉翔子(イズミショウコ)は凛とした視線で旭希を見上げる。
「殴られてあげただけ、まだマシってカンジかしら。でもこんなことばっかりしてると、そのうち寝首掻かれるから」
それはアンタの方だろう、なんて。出来もしないことを考え、旭希は上っ面だけの笑みを浮かべた。
「ほんと、誰だか覚えてないんですよ」
「寝てないの?」
白黒つけたがる、ハッキリした性格の彼女らしい質問だ。
「さあ?寝たかもしれないし…彼女の勘違いかもしれないし。…で、何か用ですか?…炯の所在なら知りませんよ」
答えにもならない返事をして、とっとと話を終わらせようと旭希は聞かれそうなことを答えてしまう。炯の所在など、知るわけがない。あの日以来会っていないどころか、別れた自宅にさえ帰っていないのだから。炯に合鍵を渡してあること、今回ほど後悔したことはなかった。
拒絶に取られない程度の歩調でゆっくり歩き出した旭希の腕を、翔子が強く引き止める。
「何か」
「ねえ、高沢くん。炯くんと何かあったの?」
じっと、問いただすような視線。