夕刻の宿、相模屋(さがみや)。
二階の端の一室に、寄り添う人影は、想いを繋いで間もない時雨(しぐれ)と桜太(おうた)のものだ。
町に来てから少し背の伸びた桜太だが、こうして時雨に寄り添うと、まだまだ華奢な身体をしている。そんな桜太の育ての親よりも、いくらか年上の時雨は慈愛というより、もっと熱っぽい瞳で、桜太を見つめていた。
くるくると、時雨の長い髪に悪戯な指を絡ませていた桜太は、それをほどくと手を伸ばし、時雨の無精ひげに触れた。
指で触れたところに、唇で触れて。泣いているように潤んだ、大きな瞳が時雨を映し、ふふっと笑う。艶めかしい表情に、時雨も頬を緩めて、桜太の唇を指先でなぞっていた。
仲睦まじく肌を寄せ合い、言葉を交わす二人だが、大騒動の朝からふた月以上が経つというのに、現状はあまり変わっていない。
桜太はいまだ、呉服を扱う大店の近江屋(おうみや)で住み込み奉公をしているし、時雨は別の場所に住んでいる。二人が一緒の時間を過ごせるのは、この相模屋ぐらいだ。
互いを見つめて微笑み、片時も離れず共に在る。そんな甘い甘い生活を望んだ二人を許さなかったのは、捨て子だった桜太を拾い、引き取ってくれたの育ての親、圭吾(けいご)だった。
想いを重ね、肌を重ねた二人の元へ乗り込んできた圭吾。悪鬼の形相で太刀を振り回し、時雨を追いかけ回したことは、まだ記憶に新しい。
大体が圭吾は、良くも悪くも時雨のことを知りすぎていた。
今まで根無し草のようにふらふら、ふらふらと。適当な女性の、時には男性のもとを泊まり歩いていた時雨。そんな時雨に可愛い息子を預けることなど、出来るはずがないと言い放つ。
――ざけんなよ。
ようやく落ち着いて、目の前に時雨を正座させ、どっかり胡坐をかいた圭吾は時雨を睨みつけていた。
――桜太が誰に惚れようと、それが男だろうと女だろうと、俺に文句の言えるこっちゃねえ。桜太が心から惚れてるっつーなら、大概のことは許してやるさ。でもな、時雨。てめえ今日明日で身奇麗になるような立場か?中途半端なまま全部放り出して、桜太が欲しいだと?馬鹿言うのも大概にしやがれ。
圭吾自身、惚れ抜いて一緒に暮らしているのが男の朔(さく)なのだから、そこは煩く言うつもりもないという。二人の年の差にも、目をつぶろうと。
しかしだ。
よりにもよって、こんな遊び人に大事な桜太をくれてやるほど、心は広く出来ていない。
いちいちもっともな圭吾の言葉だったが、時雨は引き下がらなかった。
妻を亡くして数年。やっと素直に愛しいと思える相手を、見つけたのだから。桜太の父親ともいえる圭吾に反対されたからといって、諦めるわけにはいかなかった。
それでも時雨の言葉を容赦なく撥ね付けていた圭吾が、ようやく心を動かしたのは、桜太に必死な顔で言い縋られたから。
時雨でなければ駄目なのだと。
自分が時雨を好きなのだと。
時雨のそばにいないと、自分は幸せにはなれないと言って。
愛しい養い子の桜太が、涙さえ浮かべて訴えるのだから、圭吾も無下には出来なくて。むすっと不機嫌にしていると、居合わせていた朔まで、二人を庇いだした。
時雨の所業を責められるほど、あなたは立派な行いをしたんですか?…なんて自分たちのことを持ち出されたら、圭吾も言葉に詰まってしまう。
こう着状態になったところに言葉をかけたのは、こちらもその場に居合わせていた時雨の息子、弥空(みそら)だった。
――じゃあ、父に身辺整理をさせたらどうです?確かに今日明日じゃ終わらないでしょうから、それまで桜太くんには今まで通り、近江屋で働いてもらって。私が責任を持ってお預かりしますから。
もっともな、しかし面倒極まりない提案に、時雨がひくっと頬を引き攣らせた。
それをじろりと睨みながら、圭吾は「まだ足りない」と条件を追加する。
――てめえが自分で身を立てられたら、認めてやらんこともない。
――圭さん……
――当然だろうが?こちとら大事に育ててきた息子を、てめえなんかにの嫁にしてやるって言ってんだ。身辺を整理して、己の稼ぎで家のひとつも借りられなきゃ、話になんねえよ。
――いつまでかかるの、それ!
――ああ?!てめえ次第だろうが!いつまで近江屋の旦那に飼われてるつもりだ!
この言葉には、さすがの時雨も押し黙った。
妻を失い、婿入り先を放り出されてから、いじいじと拗ねて浮名を流すばかりだった時雨を、養ってくれていたのは近江屋の義父だ。たとえそれが、時雨の望まぬことであっても。状況を作り上げたのが近江屋の義父であったとしても。
確かにそんな胡散臭い素性のまま、未来のある桜太を貰い受けることなど、出来るはずもないだろう。