【明日への約束@】 P:01


 江戸城を見るまで、大人でも七日はかかる距離。しかし江戸の流行りを伺える程度には近い、とある宿場町のそば。
 町から村へは半日もかからない。その村があるのは、険しい山のふもと。
 豊穣に恵まれた平穏な農村だ。

 村には農民ではない者も何人か暮らしていて、彫り師の圭吾(けいご)もそのうちの一人。
 村人たちはよく知らないようだが、当代随一と謳われた彫り師の、唯一の弟子である圭吾の仕事は、江戸でも高く評価されている。彼の腕を買ってわざわざ江戸から足を運ぶ者までいるほどだ。

 ただ圭吾という男はどうにも気難しく、我が儘なほど客を選ぶので、大抵の者は町で圭吾に話を通し、仕事を請けてもらえるまで宿に滞在する羽目になっていた。
 しかも仕事を請けてもらえたらもらえたで、圭吾は宿へやって来て仕事をする。つまり圭吾の仕事が終わるまで、客は滞在を続けなければならない。仕事代に滞在費を含め、かかる費用は半端なものじゃない。
 それをわかっていてなお、圭吾に仕事を頼もうとする者は、後を絶たなかった。

 花を彫れと言おうが、竜を彫ってくれと頼もうが、圭吾の気に入らなければ望みは叶えられない。
 ――てめえにゃ似合わねえ
 という一言で依頼は却下され、圭吾が思うままの図案で彫り物は仕上がってしまう。しかしそんな勝手な仕事でも、出来を見て文句を言う者はいない。
 圭吾の仕事には天上から光が射す、と言ったのは誰だったか。
 確かに彼の描いた彫り物は、闇の中でも光を受け、いっそ自ら光を放って、人の目を釘付けにした。絵師になった方が儲かると、浮世絵を望む声もあるほどだ。

 ……ところで。
 馬鹿にならない宿代を工面できない者の中には稀に、圭吾の方こそぜひ彫ってみたい思わせる者がいる。もしくはどうしても恩があり、渡世の義理があって、圭吾が断れない相手など。
 本当にごく稀な話なのだが、そんな場合に限ってのみ、圭吾は自分の仕事場へ、客を招くことがあった。
 彼は村の集落から少し距離を置いた山側に、大き目の母屋と、それよりは少し小さな離れを構えている。この離れが、仕事場だ。

 そんな仕事場を持ちながら、圭吾がそこで仕事をしたがらないのには、理由がある。その理由こそあの無愛想な圭吾が、目の中に入れても痛くないほど可愛がっている、少年の存在。
 所帯を持っているわけでもないくせに、捨て子を拾って育てているという話は、どうにも圭吾という男に似合わない。子供が十を数える今でも、信じない者がいるくらいだ。
 粋を愛する江戸の人々。とはいえ、わざわざ足を伸ばし、こんな田舎まで彫り物を入れに来るような連中には、えてして脛に傷持つ者が多いのも事実。圭吾自身は彫り物だけではなく、喧嘩の腕にも覚えがるので、揉め事など気にはしないのだが。
 ……あれだけ子供を可愛がっていれば、客を遠ざけたがるのも、無理はないだろうと。
 事情を知る村人や、町の顔見知りたちは、苦笑を浮かべながら親子というには年の近い二人を見守っている。

 十年も昔、桜が満開の季節。
 困り果てた村人たちの真ん中で、親に捨てられた赤ん坊は、なんだかやけに嬉しそうな顔で笑っていた。
 その年は近年でも稀にみる不作で、家族さえが食い詰める状況だった。誰も引き取ってやれないと、苦い顔をつき合わせている村人たち。
 通りがかった圭吾は、少し困った顔をしながら「協力してくれるなら、自分が引き取ろう」と声をかけた。
 困った顔もするはずだ。誰より圭吾自身が、己の言葉に驚いていたのだから。
 まっとうに育ったとは言えない自分などが、てめえの子でもないのに、人ひとり育てようというのだ。金があれば子供が勝手に育つわけじゃないことぐらい、圭吾にもわかっていた。
 でも、なんだろう。
 眉を寄せ顔を突き合わせて、放っておけばいいものを、自分たちの食い扶持を減らす相談まで始めてしまっている、善良な村人たち。彼らに囲まれ、まるで幸運が訪れることがわかっているとでも言うように、無邪気に笑う赤ん坊を見ていたら、手を差し伸べたくなったのだ。
 誰の手でもいいというなら、自分が手を差し伸べてみようかと。
 きっかけは、気まぐれ以外の何物でもなかったかもしれない。
 もちろん圭吾の言葉を聞いた村人たちは、あからさまに驚いた顔をしていた。圭吾が悪い人間ではないことなどわかっていたが、それにしてもまさか、彼がこんなことを言い出すなんて、夢にも思わなかったのだろう。圭吾本人でさえ、自分がそんなことを口にする人間だとは思っていなかったのだから。

 圭吾と村人たちの間には、元より険悪さなどはなかった。
 ひっそりと住み着いた圭吾が、心根の正しい男だということを、村人たちは知っていた。