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 心を占める時雨(しぐれ)への想いに従って、桜太(おうた)は自らの足で歩き出すことを決めた。
 生まれ育った緑の豊かな村を出て、自分を優しく見守っていてくれた人々と離れることは、思ったよりずっと寂しかったけど。
 時雨の大きな手が肩を抱いてくれさえすれば、小さな身体を走る熱さに、悲しみが遠くなる気がした。



 昨日の夜。
 時雨の帰っていった家で、桜太はいつもと同じように夕餉の支度をした。
 じっと黙ってその様子を見ていた圭吾(けいご)は、並んだ食事を口にして、ふと懐かしげに笑い「美味いな」と呟いた。その横顔は、寂しそうだけど誇らしげで。
「初めてお前の作った味噌汁は、食えたもんじゃなかったよなあ」
「そうなんですか?」
「兄ちゃんっ」
「見様見真似で作ったもんだからよ。水に味噌溶いただけの汁に、千切った葱が浮いてんだぜ?それ出された時にゃ、さすがの俺もこの先どうなるもんかと、途方にくれたな」
 目の前の食事からは、想像もつかないような恥ずかしい思い出話に、桜太が赤くなる。笑みを浮かべた朔(さく)が「どうしたんですか?その味噌汁」と聞いた。
「食べてくれたよ…」
 そう答えたのは桜太だ。
 桜太も覚えている。少しでも圭吾の役に立ちたくて必死で、作ってみた不味い味噌汁。作った桜太自身でさえ吐き出したくなるような代物だったのに、圭吾は残さず食べてくれた。
 初めて作った味噌汁だけじゃない。圭吾は一度として、桜太の作ったものを残した事がない。どんなに失敗しても、必ず残さずに食べてから、ちゃんと作る方法を教えてくれた。
 初めて繕ってがたがたに歪んでしまった着物も、初めて書いた読めない手紙も、ちゃんと手にとってから正しい方法を教えてくれる。厳しい圭吾だけど、頑張る桜太のことを、いつも見ていてくれた。

 聞き飽きるほど「いつでも帰って来い」と繰り返す、圭吾と朔。
 優しい朔だけならともかく、普段は厳しい圭吾なのに、一度決めたことを覆してもいいなんて、珍しいことを言うものだと思うけど。どこか拗ねたような表情で桜太を抱き上げ、自分の膝に座らせて、圭吾はずっと桜太を離さなかった。
「子供みたいですよ、圭吾」
 朔に笑われても、圭吾は苦笑いを浮かべ
「俺は諦めが悪ぃんだ」と返すだけ。でも時雨に約束した通り、町へ行くのをやめろとは、一度も言わなかった。

 朔と共に住むようになってからは初めて、布団を寄せ三人並んで床に就いた。
 右側に圭吾が、左側に朔が寝てくれて、桜太は真ん中で二人と手をつなぐ。
「なあ、桜太」
 囁く圭吾がどんな顔をしているか、暗くてわからなかったけど。
「時雨が言う通り、俺はお前を離したくねえけどよ。…でもな、お前が自分で考えて、自分で決めて、俺に反発してでも信念通したの、初めてだろ…。それは、嬉しかったぞ」
 穏やかな声。
 桜太は朔の手を離し、圭吾の胸に縋り付いた。この家を出て行くことには、躊躇いも後悔もないのに。それなのに、涙が溢れて止まらない。
 桜太の肩を圭吾が抱いて、朔が髪を撫でてくれる。寒い季節でもあるまいに、身を寄せ合って目を閉じた三人は、長いこと互いが眠れないでいることを知っていた。



 朝になって、目を覚ましたら。圭吾はいつもよりずっと無口になっていた。落ち着かない様子で、煙管をふかすばかり。
 心配そうな朔が、ずっと圭吾と桜太を見比べ、ため息を吐いている。
 身支度を整え、荷物を作った桜太が、手持ち無沙汰になった頃。ようやく時雨が現れた。

 朔はそわそわと、村のはずれか、いっそ町まで送って行きたそうな素振りだったけど。圭吾は家を出た所までしか送らない、ときっぱり言い放った。
 でも戸口に立って、桜太の背中を時雨の方へ押した圭吾は、背の高い時雨と目を合わせ深々と頭を下げてくれたのだ。
「時雨、桜太のこと頼む」
「圭さん」
「まあ、至らねえところもあるだろうけどな。俺が育てたとは思えねえくらい、しっかりした子だ。…頼んだぞ」
 小さく笑って。
もう一度頭を下げた圭吾のことを時雨は、茶化したりしなかった。

 自分の為に頭を下げてくれている圭吾を見て、桜太は初めて心の底から、圭吾が自分の父なのだということを身体に刻めたような気がした。