【明日への約束B】 P:02


 自分を拾ってくれた人でも、今まで面倒を見てくれたというだけの大人でもない。圭吾こそが、桜太の父親。
 そう思ったら、また涙が溢れて仕方なくて。
「兄ちゃん!」
 圭吾の着物に抱きつき、顔を上げる。
「行って来ます!」
「ああ。頑張んな」
 圭吾の浮かべる笑いはやっぱりどこか、寂しそうだけど。でも桜太の視界には、圭吾と朔がきれいに収まって、自分を見つめてくれている。
 歩き出した桜太は、何度も振り返って手を振った。
 圭吾と朔は寄り添うようにして、桜太の姿が見えなくなるまで見送っていてくれていた。

 ただ時雨のそばにいたいという、それだけの気持ち。その単純な願いは、たくさんの代償を桜太に要求する。
 大好きな人たちとの別れ。
 大好きな村との別れ。
 けれど、それでも桜太が立っていられるのは、朔が言っていたように「強くなった」からかもしれない。
 だって疑いようもなく信じてしまえるのだ。いつまでも圭吾や朔が、自分を待っていてくれると。いつ帰ってきたって、必ず受け入れてもらえると。
 今までは目に見えない不安に追われ、押しつぶされそうに怖かった。桜太は無自覚に、でもいつだって必死で、圭吾の背中を追っていた。人の心が強いことを知らなかった、子供の不安。
 唐突にひらけた世界は眩しくて、まだ目を開けられないほどだけど。傍らに時雨がいてくれるなら、何だって大丈夫だと信じられる気がする。



 村を出たときには、さすがに少し下を向いていた桜太だったが、しばらくもすればいつもの元気を取り戻していた。
 小さく纏めた荷物を持ってやっている時雨は、自分で気持ちの整理をつけたのだろう桜太に、どう声をかけてやればいいのかわからない。不甲斐ない己に呆れながら、半歩後ろを歩いている。
 二人で歩く、町までの長い道のり。休みなく歩き続ける桜太を見下ろして、時雨はぽんと少年の頭に手を置いた。
「なに?時雨」
「疲れたかい?」
「全然!平気だよっ」
 時雨は?疲れた?と、聞いてくれる桜太が、自分の荷物を持とうと手を伸ばすのに、時雨は柔らかく笑って首を振った。
 うじうじ悩むのは、大人の情けなさだ。きっと今頃、圭吾と朔は真っ暗に落ち込んでいるだろうに。潔い子供の柔軟さといったら。
 見習いたいものだと苦笑いを浮かべて、時雨は開けた視界に目的地を指差した。
「ほら、見えてきたよ」
「うん!」
 ぱあっと顔を明るく輝かせ、ぎゅっと時雨の袂を握った桜太は、嬉しそうに微笑んで顔を上げた。時雨も穏やかな笑みを浮かべて、少年の肩をぽんぽん、と叩いてやる。
 お日様が天上を掠めるくらいに村を出て、いま辺りは夕焼けに包まれている。目指す町へ着く頃には、薄暗くなってくるかもしれない。
「ねえ時雨、あとどれくらい?」
「そうだねえ…」
 新しい世界までは、あとほんの半里というところ。



 二人の向かっている町は、街道沿いの宿場町としては大きい方だ。
 江戸や上方に比べれば小さいが、海に近く水路が発達しているせいか、物流の拠点にもなっている。
 江戸へは陸路より、海路の方が早い。
 町を歩けば方々に船を見られるし、大きな蔵も多かった。江戸へ運び込まれる荷物は、一度ここで荷揚げされ、蔵へ収まって
もっと小さな船に移し変えられ、江戸へ向かう。
 商家と宿が多く、料理茶屋も軒を並べていて、珍しいものが比較的安く手に入るので、わざわざ仕入れのために江戸から訪れる人も多い。
 ずっと村で育っている桜太には、いつ来てもざわざわ騒がしく映る町。目眩がするほど人が多くて、宿屋や店の声が方々から聞こえるところ。
 目に珍しいたくさんのものが軒先で売られているが、昔から桜太はあまり子供が喜ぶようなものに興味がない。圭吾の元で育ったせいか、玩具や菓子よりも浮世絵や絵草子、工芸品を眺める方が好きだった。

 二人はようやく町へたどり着き、とにかくこの空腹をどうにかしなければと、小料理屋の端に腰を落ち着けた。気のきいた料理にありついて、時雨が銚子を一本空け、店を出たときにはもう、暮れ六つ(午後五時頃)の鐘が聞こえている。
「さて…行こうかね」
「うん」
 時雨に促されて店を出た桜太は、この時になってもまだ、どこへ行くのかという疑問を口にはしていなかった。いまさらどころか、桜太は村を出るときから、一度もその問いを口にしていない。