覚えていなくても、弥空には両親に愛されていた確信がある。今も父に愛されている自信がある。
どうしようもないところのある父。流れに逆らわず、柳のようにふらふらしている人。
色んな人と関係を持ちながらも、特定の人との繋がりを持とうとしないのは、今も母を想う気持ちがあるからだろう、なんて。そんな考え方は、息子の贔屓目かもしれないが。
しかしもう、母が他界して十年にもなろうというのだ。いい加減あの人は、自分の幸せを考えた方がいい。
弥空はじっと、桜太を見つめた。
「…そうだね」
まっすぐな桜太。大事に育てられたのがわかる。
責任感の強い、かわいそうなくらい自分のことを後回しにしてしまう、優しい少年。その桜太が、圭吾の家を飛び出すほど時雨を求めている。
「父には、君みたいな子が必要なのかもしれないね…」
時雨が頑張れというから、桜太は我がままを言わなかった。桜太がこの近江屋でどれほど頑張ってきたかは、誰より弥空が知っている。
優しくしてやりたい人々から冷たく拒絶され、傷ついてしまっている父には、こんな風に無償の愛情で手を伸ばしてくれる人が、必要なのかもしれない。
「いいよ」
唐突に何かを許されて、桜太は涙に濡れた顔を上げた。
大きな瞳いっぱいに涙を浮かべ、弥空を見つめている。戸惑う視線が潤み、どことなく艶めかしい。
そうそう子ども扱いも出来ないな、と。弥空は大人びた表情で笑った。
「父のそばにいたいなら、そうするといい」
「っ…でも」
「ねえ桜太くん。君は十分頑張ったよ?父に言われた通り、文句も言わずに良く働いたね。だからもう、いいんだよ。…少し待ってて」
桜太を置いて一度部屋に戻った弥空は、財布から取り出した二朱銀をひとつ懐紙に包み、再び桜太の元へ現れた。
「おいで」
「弥空さん…」
弥空は自分が肩にかけていた羽織を取ると、桜太に着せてやる。そうして木戸まで連れて行き、ゆっくりと小さな扉を開けた。
「通りに出て、右へ曲がって、突き当り二つ目の宿。相模屋(さがみや)さんだ。知ってるね?」
「うん」
「あそこは表に不寝番の人が立ってるから、これを渡しなさい」
金を包んで握らせてやった懐紙には、きれいな透かしが入っている。
近江屋では父を遠ざけている弥空。
表だって会えない弥空と時雨は、相模屋を連絡手段に使っていた。
転々と居場所を変えてしまう時雨だが、必ず満月の夜と新月の夜は、相模屋に泊まっている。
時雨に何か用のあるとき、弥空はいつも同じ懐紙に手間賃を包んで文を添え、相模屋の人間に渡していた。手間賃をもらった相模屋の使用人は、誰にも秘密で時雨に文を渡してくれる。
同じようにして、時雨から弥空の元へ文が届くこともあった。
桜太の面倒を見てやって欲しいという文も、こうして時雨から弥空の元へ届いたのだ。
今宵は、満月だから。時雨が相模屋に滞在していることはわかっている。
懐紙に包んだ金を渡して、弥空は木戸の外まで桜太を導いた。
「この懐紙を見せれば、わかってもらえるから。言伝(ことづて)があるって、そう伝えなさい。父のところへ案内してくれるよ」
「時雨に…会えるの?」
桜太の不安げな声に、弥空は力強く頷いてやる。
深夜に桜太一人を行かせることには不安もあったが、相模屋なら子供の足でも、そういくらもかかるまい。この月も、少年の足元を照らしてくれるだろう。
いいの?と上目遣いに尋ねてくる桜太の手を、弥空はぎゅっと握った。
父にはこんな人が必要だと思うけど。時雨の勝手に桜太を巻き込み、辛い思いをさせるつもりまではないから。
「後のことは引き受けてあげるよ。みんなにも、話しておくから。…でも、いいかい?どうしても耐えられなくなったら、ここへ戻っておいで。圭吾さんのところまで、必ず送って行ってあげるから。いいね?」
言い含め、一度だけ小さな身体をぎゅうっと抱きしめて、弥空は桜太の背中を押した。
ぱあっと明るい表情になって駆け出した桜太は、通りへ出る前に弥空を振り返り、大きく手を振った。
そうして、走り出す。
満月の下、まっすぐ前だけ見つめて。
やっと会えるのだ。
……やっと、やっと。夢にまで見た、愛しい人に。
<<ツヅク>>