【明日への約束D】 P:01


 時雨(しぐれ)は物音に敏感な方だが、どうにもその時は深く寝入ってしまっていて、目を覚まさなかった。
 雨の止んだ、静かな夜。
 うつらうつらしながら目蓋を上げたのは、腕の中の桜太(おうた)が起き上がったからだ。
「…桜太?」
 どうした?と、時雨がぼんやりした声をかける。
「うん…なんか、騒がしくて…」
 早いうちから横になっていた二人だが、新月だということもあって、外はもう真っ暗だ。
 こんな時間に大騒ぎするような無粋な客など、相模屋(さがみや)に相応しくはないが。宿にはさまざまな人々が行き交う。
 そんなこともあろうさ、なんて呑気なことを考えていた時雨は、陶器の割れる音に驚いて、ようやく起き上がった。
 がしゃん!という派手な音と、男たちが怒鳴りあう声。その中に自分の名が呼ばれたような気がして、時雨が眉を顰める。
「なんだってんだ、一体…」
「わからない。わからないけど、さっきから誰かが、時雨を探してるみたいで…」
「あたしを?」
 深刻な顔で時雨の袖を握る桜太が、じっと耳をそばだてている。
 せっかくの穏やかな時間を邪魔する声は、ため息を吐いている時雨の耳にも届いた。
 近江屋(おうみや)の時雨はどこにいる、と叫んでいる男。
「ったく…」
 時雨はふと、自分の袖を掴む桜太が、震えているのに気づく。繊細な子だから、きっと恐怖に震えているのだろうと察して。座りなおした時雨は、そっと桜太を押しやった。
「時雨」
「まあ、あたしを探してるんなら、そのうち来るさ」
「でも」
「いいからいいから」
 浮名を流し放題の時雨には、こんな事態も慣れたもの。自分の斜め後ろに桜太を下がらせ、放り出していた羽織を肩にかけて、時雨は煙管に火をつけた。
 すうっと一息吸い込んだところに、襖を乱暴に開く音が重なる。

 叩き破る勢いで襖を開け放ったのは、四十絡みの男。
 時雨には見覚えのない顔だった。
「騒ぎなさんな。他の客に迷惑だよ」
 じろりと睨む時雨は、男を足の先から頭のてっぺんまで見上げるが。血走った目をして、包丁を握り締めているこの男に、やはり見覚えはなかった。
「貴様が近江屋の時雨かっ?!」
「確かに時雨はあたしだが、お前さんは?やけに物騒なものを持ってるじゃないか」
 のんびりした時雨の声。男の顔が怒りに赤く染まる。
「おりんは俺の女房だ!貴様、人の女房寝取っておいて、忘れたとは言わせんぞ!!」
 怒鳴る男の、恨みがましい声。しかし時雨は全く動じず、なんでもないことのように顎鬚を掻いていた。
 煙管を吸いながら、一応その名を記憶に探してみるのだが。
「おりんさん、おりんさんねえ…。旦那、間違いなく間男はあたしなのかい?どうにも覚えのない名なんだが」
「とぼけるなっっ!貴様だ!貴様に違いないんだ!!」
 激昂する男に、時雨は苦笑いを浮かべ、煙管を持ち替えた。
「とぼけちゃいないさ。なあ旦那、ちったあ落ち着きなよ。そりゃあたしは、行いの正しい男じゃないけどねえ。人様の女房殿に手を出すなんて、そんな大それたことはしやしないよ」
 時雨が手を出すのは、一人身の女だけだ。しかも未亡人ならともかく、人妻と生娘には手を出さないことにしている。どちらも面倒極まりない。
 だが男には、そんな理屈など通じない。
「うるさいうるさいっ!間男の分際で、なんだその言い草は!!」
 叫んで、手にした包丁を振り回している男。時雨はしだいにうんざりして、口をきくのも面倒になってきた。

 今日は珍しく、心穏やかに過ごせそうだったのだ。
 桜太の傷に触れて、自分の傷を晒して。桜太の温かい心に包まれ、気持ちよく温度を分け合っていた。
 それが、どうだろう。半分は自分のせいかもしれないが、こんな下らない、見に覚えのないことで静寂を破られ、温かい時間を根こそぎ持って行かれそうだなんて。
 今にも面倒だと口にしてしまいそうな時雨の態度に、男が逆上した。
「貴様ぁっっ!!」
 男の振り上げた包丁を見て、時雨はため息を吐く。あれだけ手入れの行き届いた包丁なら、多少切られても大怪我には至るまい。この男も、血を見れば少しぐらい正気に返るかも。

 追い詰められると、全てがどうでも良くなってしまうのは、時雨の悪い癖。この相模屋の主人、喜助(きすけ)からも、何度も言われていた。
 もっと建設的に、物事を考えろと。茶化してかわして逃げたりせず、正面から向き合えと。
 そんな友の言葉に、時雨はいままで曖昧な笑みでしか応えてこなかった。

 目を閉じる前に見たのは、自分に向かって振り下ろされる包丁の、銀色の光。さすがに顔を切らせてやる気はないから、目を閉じ頭を庇うように腕を上げた。