「死ねぇぇっっ!!」
男の恨みがましい声に重なって。
「だめっ!時雨っっ!!」
子供の悲鳴と、わずかな衝撃。
どさりと時雨にぶつかったのは、小さな身体だ。
呆然と目を開けた時雨の視界を、赤いものが通り過ぎる。最初、それが何か理解できなくて。
……なにが起こっているのか、わからなくて。
「邪魔だっ!どけぇっ!!」
「だめっ!時雨を傷つけちゃだめっ!」
ぎゅうっと時雨を抱きしめている、小さな身体。時雨を庇う身体は、男に襟を引っ張られても、頑なに動こうとしなかった。
「…おう、た…?」
ぽたりと、時雨の手に赤い雫が落ちてくる。
「……っ!桜太っ!!」
身体中の血が、音を立てて引いていくのがわかった。
慌しく廊下を歩く相模屋の主人は、小太りの女を従えている。青い顔をしている彼女から事情を聞いている間に、騒ぎは大きくなっているらしい。
女は、おりんと名乗った。
ありもしない自分の不義を疑って、夫が一人で神経を尖らせているのだとか。そんなものはよく聞く話で、わざわざ見ず知らずの相模屋を尋ねてまで、語ることではない。
しかしたとえつまらぬ三文芝居でも、登場人物の中に見知った名があれば話は別だろう。
今日、昼過ぎに仕事先から勝手に帰ってきた彼女の夫が、やっとお前の不義の相手がわかったと、唐突に叫んで包丁を振り回したのだという。
おりんは寸でのところで逃げたのだが、夫はどういうわけか時雨の名を叫び、長屋を飛び出して行った。
時雨は町の有名人だ。遊び人だということを聞きつけ、夫君が勝手に思い込んだのだろうけど。
何か恐ろしいことをしでかすのではないかと、おりんは方々、時雨の所在を聞いて周り、相模屋にたどり着いたのだ。
喜助が話を聞いてやっている矢先に、この騒ぎ。二人は慌てて、宿の二階に駆け上がっていた。
喜助は、時雨が喧嘩慣れしていることを知っている。
知っているが同時に、彼がへらへら笑って自分を切らせてしまいそうな、仕方のない性格だということも知っている。
宿の二階に上がると、騒ぎは大変なことになっていた。野次馬の客やら、駆けつけた使用人たちやら。
その中心に割って入った喜助は、おそらく時雨に叩きのめされたのだろう、身折って腹を押さえている男を見つけた。
「あんたっ!」
叫ぶおりんの言葉を聞いて、どうやらこの男が思い込みの激しい、おりんの夫君だと知る。なんとか友人が無事だとわかり、息をついた喜助は部屋を覗いた。
「おい時雨、無事か…」
尋ねる言葉が終わらないうちに、乾いた音が鳴った。
よろめいて、座り込んだのは桜太だ。
少年は叩かれた頬を押さえ、泣きながら時雨を見上げていた。
桜太を叩いた手が、じんわりと熱くなる。しかし怒りに我を失っている時雨は、ぶるぶる唇を震わせ、桜太を睨みつけていた。
男への怒りじゃない。
己の不甲斐なさより、圭吾(けいご)への申し訳なさより、何より時雨は桜太の所業に憤っていた。
あまりにも理不尽な怒りは、しかしどうしても止まらない。
「なんだってんだ…」
「し、ぐれ」
「お前は何をしてるんだ!絶対に俺よりも先に死んだりはしないと、そう約束したんじゃないのかっ!」
へらへらした普段の口調など忘れてしまったかのように。きつい言葉で激しく怒鳴る時雨に、桜太は身を竦める。
「ごめんなさい…時雨、ごめんなさい…」
時雨は怯えて震えている桜太を、どうしても許すことが出来なかった。
切られた桜太の腕は、大した怪我じゃない。血が出ているが、そう深く切られたわけでもなかった。
しかしそれは、運が良かっただけだ。
一つ間違えば、命を落としていたかもしれない。
桜太の血を見た瞬間、時雨の視界は真っ白になっていた。
白い世界にただ、桜太の血だけが鮮明になって、全てを切り裂いたのだ。
血を吐いて倒れた深夕。両手の指をすり抜ける様に、逝ってしまった愛しい人。
最期の姿に桜太が重なって、時雨の心を奈落に突き落とした。
少年の優しい、無垢な約束に救われた後だったから。傷を癒してくれた桜太だからこそ。
どんなに理不尽で、どんなに身勝手な怒りか……時雨には見えていない。ただ悲しみと痛みで混乱した心が、なりふり構わず桜太へ向かい、牙を剥く。
強い力で打ち据えられた桜太の頬は、赤く腫れてしまっている。大人の力で思いっきり叩かれたのだから、無理もない。
それを見ているのにしかし、時雨の怒りは少しも収まらなかった。
立ち上がることも出来ず、涙を浮かべて自分を見ている桜太を、可哀想だと思うより募っていくのは、苛立ち。
裏切られた、と。
同じ言葉が何度も何度も脳裏に浮かび上がって、時雨の思考を妨げる。