【明日への約束E】 P:01


 陰間茶屋に出合い茶屋。茶屋と名のつく店は色々あるが、いま時雨(しぐれ)が居座っているのは「舟茶屋」と呼ばれているところ。
 表向きは船旅の途中に立ち寄る茶屋。しかしこの町にある舟茶屋は、安宿の意味を持つ。
 宿としての届けも無く、客を泊まらせていることが知られれば、役人からお咎めを食うのは確実だが、そこはそれ。いつの時代、どんな町でも「持ちつ持たれつ」見てみぬふり、というのはあるもので。
 物資の荷揚げ場に近いこのあたりには、ずらりと同じような、粗末な茶屋が並んでいた。

 その一軒である竹の屋(たけのや)で、時雨はぼんやりと天井を見上げていた。ここに着いてからどれくらい経っているのか、時雨にはわからない。今の彼には、すでに日が落ちていることすらわからなかったろう。
 竹の屋はずらりと並んだ舟茶屋のなかでも、飛び抜けて値段の安い、古いところだ。何人もの客たちが身を寄せ合う大きな広間が一階。
 二階の部屋は小さく区切られ、大の男が手足を広げて横になれば、どこかしら壁にぶつけてしまいそうな狭さだった。
 時雨がいるのもそんな、小さな二階の一室。
 相模屋(さがみや)のように、からりと窓が開くこともなく、布団が一組と安っぽいたばこ盆が置いてあるだけ。
 畳んで隅へ片付けられている布団を敷くこともせず、そこへ寄りかかって足を投げ出している時雨は、酒ばかりを持って来させ、陰鬱な表情を浮かべている。

 繰り返し繰り返し、考えるのは後悔ばかり。

 桜太(おうた)が飛び出して行った後、時雨は一睡もせずに朝を迎えた。そのまま昼前にふらふらと陰間茶屋を出て、どこをどう巡ってきたのか全く覚えていない。いつの間にか竹の屋に着いていたから、なんとなくそのまま上がり込み、終わりのない後悔を、いつまでも自分に刻み続けている。

 昨夜、陰間茶屋の主人は慌てて葉霧(はぎり)を連れ戻してきた。しかし時雨は葉霧の顔を見ることもなく、ろくに慰めの言葉を口にしてやることも出来ずに、二人を追い返したのだ。
 日が昇り、外が明るくなるまで、豪華な部屋にひとり。時雨はただじっと、壁を睨み続けていた。
 己の非道さに吐き気がする。
 自分は人を傷つけてばかりだ。
 葉霧はいつも傲慢で、確かに残酷なことも平気でやる少年だけど。
 その実、心根の繊細な彼が、悲しい素性の持ち主らしいということは、他の陰間たちから聞いていた。

 会えばつい哀れになって、抱く気にならないから避けているのだが。たまに床を共にすれば、葉霧はいつだって何か言いたそうに、時雨を見上げてくる。
 寂しそうな顔をして時雨の腕に掴まり、薄く唇を開いて、でも。……葉霧は何も言わない。
 きれいな唇がゆっくりと歪み、自嘲に変わる。ひとつ溜め息を吐く間に全てを諦め、沈黙の中へ何もかも封じ込めてしまう葉霧。
 だがその沈黙の中に、助けて、という悲鳴が聞こえる。
 愛して、と嘆く声がする。
 誰にも向かわない叫びは、時雨にも聞こえているけど。どうしてやることも出来ないから、時雨はそっと目を閉じ、少年の華奢な肩を撫でてやるのだ。
 ……それくらいしか、与えてやれるものが無い。

 昨日の夜、時雨から残酷な仕打ちを受けた葉霧は、見たこともないほど泣き崩れ、桜太の背に庇われて、唇を震わせていた。
 自分に優しくしたりするなと、叫んだ葉霧の声が今も耳について離れない。
 あんなに泣いて、でも葉霧は時雨を責めることも、詰ることもしなかった。ただ己の立場を思い知らされ、悲鳴を上げただけだ。
 ……わかっていたはずなのに。
 怒りのせいで思考が真っ白になって、桜太を傷つけることしか考えられなくなったとき、最初に浮かんだのが葉霧の顔だったなんて。


 眠れずに重くなるばかりの頭。そこへまた酒を流し込んで、時雨は長い髪をかきむしった。
 愛しい深夕(みゆう)が編んでくれた結い紐などつけていられなくて、放り出して、そのまま。
 鬱陶しいくらい、長くうねった髪。
 重いもんばっかり背負うのは、趣味か?なんて。圭吾(けいご)に笑われたことがある。
 長い髪、無精ひげ。そればかりか、着物の煙管も、お前の選ぶものは重いものばかりだと、圭吾が笑っていた。業かもしれないと考えて、時雨は頭を振る。
 そんなものは、いい訳だ。

 時雨が桜太を傷つけたと知れば、圭吾はどんなに怒るだろう。いっそ本当に、彼が殴りつけに来てくれないかと。そんなことを考えている自分は、まだ他人の手で断罪されることを望むのか。
 桜太の優しい笑みが脳裏を過ぎって、いっそう時雨を苦しめる。