真っ暗な町に、一人で飛び出して行った桜太。危ない夜の町を行く少年を心配してやれないほど、昨夜の時雨は狂気に陥っていた。
辛そうに、絶望的な顔をしていた。
縋りつくように時雨の名を呼んで、泣いていた桜太。
いつもいつも、少年が懸命に笑っていることには気づいていた。
誰といても、どこか緊張したように。周囲に気を配り、誰も傷つけたくないと、一生懸命に笑っていた。
元気に、明るく。出来るのはそれだけなのだと考えてしまう、優しい少年。
桜太の目の前で時雨が切りつけられれば、ああして彼が飛び出してくるのは、わかっていたはずだ。自分が好きだと、そばにいたいのだと言う、幼くて愛しい存在。
精一杯に手を広げ、時雨を受け止めようとしてくれる。疲れ果てている時雨を、なんとか癒そうとして。
先に死んだりはしないと、途方もない約束を口にした。
絶対に置いていったりはしないのだと。
皮肉げに笑って、茶化してしまったが、時雨はあの言葉を聞いて、自分が一番欲しいものに、初めて気づけたように思う。
深夕を失って、弥空(みそら)を取り上げられて。愛しい存在を次々に失った心が、寂しいのだと泣き喚くのにずっと蓋をしていた。
だって、それはまるで、子供のような泣き言だから。
そんなことを望んでも仕方ないことは、わかっているだろうと。言い聞かせ、自分を騙して、今まで生きてきたのだ。
そう、幼い頃大事にしていたものを、上の兄に渡したときも。ずっと食べたかった菓子を、弟に譲ってやったときも。大好きだった友人が、遠く居を移しいなくなったときも。
いつだって時雨は、そんなものだと思ってきた。
大したことはない、命まで取られる訳じゃないからなんて、誤魔化していられた。
大丈夫だと……信じていた。
途方もない桜太との約束。
約束は守るものだからと囁いて、時雨の身体を抱きしめてくれた、いとけない桜太の腕。
自分で思う以上に時雨は、深夕に求め叶わなかったことを、桜太に求めていたのだろう。
だからといってそれは、桜太を傷つけていい理由になどならない。
竹の屋の階下ではその時、ちょっとした騒動が起きていた。
「困ります!ちょっと、お客さんっ!」
汗をかいて追いかけてくる竹の屋の主人を、まだ小柄な少年が振り払う。
「いい加減になさい。あまり邪魔をすると、怪我をしますよ」
しかし自分よりずっと視線の低い少年に言われ、竹の屋の主人はびくりと腕を引っ込めた。
なんというか、怪我をさせられるほど腕力があるように見えない少年なのに、言い放つその威圧感といったら。
……昼過ぎに店へ現れ、誰も通すなと自分を脅した二階の泊り客にそっくりだ。
「いやでも…あたしだって商売なんですからっ」
「ここにいるのはわかってるんです。あなたに迷惑はかけません」
「そんなこと言ってもっ…誰も通すなと言われて…ちょ、ちょっと!お客さん!」
慌てて言い縋るが、少年は一切歩みを止めようとはしない。握らされた金子(きんす)に目がくらみ、うっかりその男の存在を教えてしまったことが悔やまれる。
足早に階段を上がっていく少年に、竹の屋の主人は何かと言い募るが。彼はついに目的の部屋へたどり着き、ばんっと荒々しく襖を開け放った。
「…どうしようもありませんね、本当に」
酒と寝不足に目を赤くし、ぐったりと身体を投げ出す時雨を一瞥して。眉を寄せる少年が言い放つ。
「弥空…」
うんざりした顔で見下ろす息子を前にして、時雨は苦笑を浮かべた。
何か言い訳をしたそうだった竹の屋の主人は、面倒そうに時雨から追い払われ、階下へ去っていった。
狭い部屋の中で腰を下ろした弥空に、場所を空けてやるため時雨もなんとか起き上がる。
胡坐をかき、胸元に手を差し入れて。肩の辺りを掻いている時雨の憔悴しきった姿に、弥空はため息をつく。
「また後悔しているんでしょう」
「…………」
「言い訳を探して諦めるのは、あなたの悪い癖だと。喜助(きすけ)さんが仰ってましたけど、本当なんですね」
時雨の古い友人、相模屋の主人である喜助は、そんな風に言って「だからお父っあんを許してやんな」なんて笑っていたけど。物事には、限度がある。
手厳しい弥空の言葉に、時雨は口元を歪めた。
「…桜太に聞いたのか」
「何をです」
「色々と、な」
のらりくらり。時雨の曖昧な態度に、弥空の視線が鋭くなった。
「理不尽な怒りにとち狂った父が、自分を庇ってくれた桜太くんや、まったく関係のない陰間の少年を傷つけたことですか?それともあなたが自分のした全てのことから逃げ出して、こんな舟茶屋でごく潰しになり下がってることですか?」
「弥空…」