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【明日への約束⑥】 P:09


 のらりくらりと。流れるまま、何も望まず何を追うでもない。
 生きながらえるだけを目的に、時雨は死んだように生きていた。
 生きてきたのだ、そうして。今まで。
「なら、これからはどうだ」
 眉を寄せ、義父が問いかけている。彼もまた、自分が時雨にしてきた、やつ当たりでしかなかった己の所業を噛み締めているようだった。
 雨に濡れ、重くなっている髪を、再びかき上げて。時雨は穏やかに、義父の姿を見つめる。彼は少し、老いただろうか。そうこの人も、最愛の娘を失って、時雨と同じように苦しんだのだ。
 本当はこの人こそ、深夕の死を、その苦しみを、一番にわかり合えた人なのかもしれない。
 時雨を嫌いなのかという、桜太からの問いかけに、正面から向き合っている様子の義父が、出会って初めて身近な存在に感じた。幼い子供の問いかけを、真剣に受け止めている義父の、その偉大さと柔軟さは、何より時雨を真摯にする。
「これからの私は、深夕の最期の言葉に恥じぬよう、生きていくつもりです」
「深夕の?」
「ええ。…誰かに幸せを与え、幸せを貰って生きろと。そう望んでくれた深夕の言葉に恥じぬよう、生きていこうと思います」
 そう、だから。
 時雨の見つけた精一杯の言葉を。深夕に導かれた者ならわかる、彼女の優しさを思い出すように。
 この場において、ようやく時雨は自分の気持ちにけじめをつけた。義父と話し、深夕のいなくなった空虚をわずかに共感して、やっと答えを見つけた。

 彼女は時雨に、前へ進んで欲しいと。そう伝えて、逝ったのだ。
 悩むばかりでいつまでも立ち止まり、懸命に差し伸べられている手に背を向けているようでは、命を燃やし尽くした後、彼岸の向こうで深夕に会わせる顔がない。
 彼女の強さを。優しさを分け与えられていた者なら、わかるはずだ。彼女の死を、立ち止まることの言い訳にするのは、逃げているのと同じこと。

 義父が時雨の言葉を、どう受け止めたのか。望む答えを返せたのかどうかは、時雨にもわからなかった。
 ただ彼は、神妙な面持ちで「そうか」と呟いただけだったから。
 腕組みをして何事か考えている彼はふいに顔を上げ、焦りを隠せない様子の時雨に苦笑いを浮かべる。
「そういえばお前のそんな、切羽詰った顔を見たのは久しぶりだ」
 驚く時雨の頭上で、また暗い空が低い唸り声を上げた。降りしきる雨が、一段と強くなる。
「桜太は相模屋にいる」
「お義父さん…」
「弥空が桜太をつれて、今夜は相模屋に泊まると。一刻ほど前に出掛けて行った。…何があるのか知らんが、お前が必要とされているなら、早く行ってやりなさい」
 やんわり笑った近江屋の主人は、それだけを言い残し、時雨に背を向けて廊下の奥に去っていった。
 ごうごうと大地を揺るがすような、嵐の到来。
 姿を消した義父に向かって、時雨は深く頭を下げ、近江屋を飛び出した。


<<ツヅク>>