




【明日への約束E】 P:08
はっきりした答えは、まだ見つかっていないのかもしれない。正しいか間違っているかと聞かれたら、間違っていると思う。
でも足を泥まみれにして、ずぶ濡れになりながら走る時雨には、桜太のそばへ行ってやることしか浮かばなかった。
そう、あの時だけは違っていたから。
時雨は桜太に与えられるばかりじゃなく、自分からも桜太に優しさを分けてやれていた。躊躇いがちに傷を晒した桜太と、もう血が流れることもない自分の古傷を晒した時雨と。
嵐の夜。
あの時だけは二人、同じだけの柔らかい気持ちを、互いに預けていられた。
やっと築けた優しい時間を、勝手な怒りで最悪の夜にすり替えたのは、時雨だけど。もう一度あんな風に、二人で抱き合えるなら。
温かさも激しさも、共有できるのなら。それだけでもう、迷っている暇などない。
息を切らせ、走り続ける時雨は、立ち止まることなく近江屋(おうみや)にたどり着いた。
躊躇いもなく裏へ回り、木戸を開けて庭へ駆け込む。
いつも時雨の感傷ばかりを掻き立てる庭だというのに、今日だけは恐ろしいと思わなかった。
いっそ深夕の言葉が背中を押してくれるとさえ思える。
――誰かが時雨に手を伸ばしたら、きっとその手を取ってあげてね…たくさん幸せをあげて、幸せをもらってね…
最期まで、優しさだけを与えてくれた深夕。
彼女がどうにかして今の時雨を知ったら、きっと微笑んでくれると思う。それでいいのだと、記憶の中の彼女と同じように、時雨を後押ししただろう。
足を踏み入れた庭に立ち止まり、息も絶え絶えに時雨が長い髪をかき上げると、目の前には驚いた顔で義父が立っていた。
「……時雨?」
呆然と呟く義父は、縁側に立って時雨を見つめている。激しい雨の中に必死の形相で、追い出したはずの婿が立っているのだから、驚かれて当然だ。
「桜太は、どこにいますか…」
なんとか息を整えながら尋ねる時雨には、あの深夕が死んだ時のような、憔悴した様子はどこにも窺えない。
「一体、どうしたというのだ」
「…ご無沙汰していて、申し訳ありません。火急の用があり桜太を探しているのですが、ご存知ありませんか」
しっかりした声。けぶるような雨の中にありながら、凛とした背中。
近江屋の主人はひとつ息を吐き、腕を組んで時雨に向き合った。
「お前のそんな姿を見たのは初めてだな」
「…そうですね。私も、こんなに必死になっているのは久しぶりです」
一歩二歩と義父に近づいて、時雨は苦く笑った。
いつだって何もかもを諦めていた時雨は、最初から義父に背を向け、曖昧な態度で逃げ回っていたように思う。義父から疎まれるだけの頼りなさを、彼自身が露呈していたのだ。
「私にも、お前に尋ねたいことがある」
逆にそう言われて、時雨は驚き何度か目を瞬かせた。
やけに穏やかな声だ。義父は今のような時雨を見たのが初めてだというが、時雨もこんな風に義父から話しかけられたのは初めてだった。
桜太を求め、焦る気持ちを捻じ伏せて。時雨は義父と向き合った。近江屋という大店を取り仕切る、自分などでは足元にも及ばない偉大な人に。
「なんでしょう」
「…お前は深夕が死んだとき、何を考えていた?」
深夕の死を挟んで、ほとんど会話のなかった義父から、初めて聞かれた問いだった。しかし時雨は、考えることもなく正直に口を開く。
「私も死にたいと、そう思いました」
「…………」
「何の解決にもならず、誰も望まないのだと知っていて。それでも死にたいと。そればかりを考えました」
「…そうか」
「あの時はただ、深夕を失った痛みに耐えかねて、逃げ場を求めるように、死を望んでいました。…お義父さんにご迷惑をお掛けすること、弥空を悲しませること。そんな当たり前のことを、考えようともしませんでした」
隻翼をもがれた苦しみは、時雨の限界を超えていたから。
素直に話す婿を見つめ「では」と、近江屋の主人がは言葉を繋ぐ。
「なぜお前はいま、生きている」
厳しい問いかけに、今までの時雨ならうろたえただろう。
卑屈な思いに目を伏せ、その場しのぎの言葉を口にしたかもしれない。
でも、今は違う。
時雨はじっと義父を見つめたまま、少しだけ笑った。
「私はその答えを、ずっと探していたように思います」
「…………」
「深夕を失い、この屋敷を離れた直後は、あなたに弥空を父(てて)無し子にするわけにはいかないと、そう言われたから生きていました。その後は、弥空が私に生きていて欲しいと、願ってくれたからです」
「お前は存在することだけを意義に、生きてきたのか?」
「そう…確かに私は、毎日をただ死なないためだけに生きていました。…今まで」




