近江屋(おうみや)から相模屋(さがみや)までは、歩いてもほとんど距離のない位置だ。それでも時雨(しぐれ)は、息をする間も惜しいと言いたげに走る。
頭の上では、いっそう近づいてきた雷が空を青く光らせ、大きな唸り声を上げていた。視界が白く霞むような雨の中、泳ぐようにただ、前へ前へと。
義父と言葉を交わした後から、時雨の足には一切の迷いがなくなった。焦っている自覚はあるのに、桜太(おうた)へと向かう気持ちが止まらない。
思えば、時雨から桜太を追いかけるのは初めてだ。
気の迷いだとか、気まぐれだとか。そんな風にして、自分のことを誤魔化し続けたことが悔やまれて、仕方なかった。馬鹿な所業のせいで、桜太を泣かせたのだ。
少年のまっすぐな想いが怖くて、そんなものは子供の勘違いだと、桜太を突っぱねた。
そのくせ舌の根も乾かぬうちに、自分を裏切ったなどと、時雨の方こそ子供っぽいことを言って。
随分と、酷いことをしたものだと思う。
……許しを請いたい。
どんなに責められてもいいから、桜太の身体を抱きしめて、許して欲しいと囁きたかった。そして、やっとたどり着いた気持ちを、全部聞いて欲しいと思っている。
自分なんかどうせとか。
相手は年端も行かぬ子供でとか。
そんな言い訳をしているうちに、あまりにも遠回りをしてしまったけど。
ようやく向かい合う気になれた深夕(みゆう)との思い出や、義父のことを、桜太に聞いてもらいたい。
誰でもなく、桜太でなければ駄目だ。
導いてくれなくてもいい。ただ自分の隣りで、あのいとけない腕が支えていてくれるなら。
時雨はこれからどんなことにでも、立ち向かおうと思えるだろう。
宿屋の暖簾を掻き分け、相模屋へ飛び込んだ時雨を主人の喜助(きすけ)が待ち構えていた。ぜいぜいと荒い息を吐きながら、今にも二階へ駆け上がっていきそうな勢いの時雨の腕を、喜助は強く掴んで立ち止まらせる。
「どうでもいいが、そのまま上がるな」
ぴしゃりと言われ、時雨は息を切らせながらようやく足を止めた。
「き…すけ…」
「おい誰か、桶を持って来い」
「喜助、あたしは…」
「煩ぇ話はわかってる!おいっ早くしねえかっ!」
使用人をどやしつける喜助は、肩を上下させている時雨に手拭いを押し付けた。
「それで身体拭いてろ」
「あ…ああ」
確かにこんな濡れ鼠で、雫をぼとぼと落としていては、上がられる宿の方もたまったものじゃないだろう。着物の上から手早く身体を拭う時雨の元に、顔なじみの者が桶を持って来てくれた。
泥に汚れた足を洗ってもらいながら、時雨が友人の顔を見上げる。
その顔を見た喜助は、にやりと笑った。
やっと時雨は、墓場から這い出して、もう一度生きる気になったようだ。
濡れた足を拭いて、ようやく上げてもらった時雨は、すっかり濡れてしまった手拭いを喜助に返しながら「弥空は?」と。上ずった声で聞いている。
「焦んなよ」
「焦ってんだよ!」
「わかったわかった。餓鬼共はいつもの部屋だ。しかし時雨、お前…」
何かを伝えようとしている喜助の言葉を遮り、短く礼を言った時雨は、もう駆け出していた。
予告もなく現れたはずの時雨を、喜助が待っていたことに、疑問を持つ余裕などなさそうだ。
慌ただしく階段を駆け上がっていく時雨の後姿を見つめ、喜助は苦笑を浮かべたまま、やれやれと溜め息をついていた。
二階の端の部屋。
迷いようもなくたどり着いた時雨が、無遠慮に襖を開く。あちこちで足止めされ、もう頭が上手く回らなくなっていた。
「っ……!」
開け放った部屋に見た光景。
それは、ただでさえ思考の鈍っている時雨には、衝撃以外の何物でもなかった。
部屋の中には、確かに教えられた通り、弥空と桜太がいる。
着物を乱し、白い肩を露にした桜太と、そんな桜太を抱きしめている弥空。
舟茶屋で弥空に言われた言葉が、瞬く間に時雨の脳裏をぐるりと一周した。
桜太を「とりあえず抱く」のだと言っていた、弥空の台詞。
「弥空ぁっ!!」
かっと血が上って。
頭が真っ白になった時雨は、恐ろしい勢いで桜太を引き寄せると、そのまま弥空の胸倉を掴み上げた。
この子は自分の愛しい息子なのだとか。
どう考えても様子がおかしいとか。
そんなこと、今の時雨に言ったって、聞くことなど出来なかったろう。
「てめえ、軽々しく人のもんに手ぇ出すんじゃねえよ!」
怒鳴った時雨の必死な形相を見て、弥空はしばし呆気に取られ、そうして肩を震わせた。
「…お前、何笑って…」
「っ!あはははは!父、人のものって!手を出すなってそんな、芝居じゃないんですからっ」