【明日への約束F】 P:02


 胸倉を掴み上げられたまま、身を捩って笑う弥空。呆然として息子から手を離した時雨は、ようやく肩から力を抜いた。
 緊張が解けた勢いで、がくっと膝が折れる。そのまま弥空を見上げている時雨のことを、抱き寄せられたままの桜太が心配そうに見つめていた。
「み、そら…?」
「なんです?父、どうしました?」
 笑いを収め、しかし堪えきれずに、にやりと口元を歪めている、出来た息子。
 彼は掴まれた襟元を直しながら、平然と時雨を見下ろしている。

 なんのことはない。
 弥空には、時雨が乗り込んでくることなど、わかりきっていた。あれだけ焚きつけて来たのだ。桜太を愛しく思う時雨の気持ちが本物なら、絶対に来るだろうと踏んでいた。
 だから喜助に事情を話しておいたし、駆け上がってくる慌しい音が聞こえてから、わざと桜太の着物を少し剥いでみたりして、小さな身体を抱きしめ、しばらく待っていたのだ。

 ――嵌められた……
 がっくりうな垂れる時雨に、弥空の楽しげな声が降ってくる。
「やっと観念したんですね」
「お前さんは…本当に…っ」
「なんでしょう?何か咎める言葉でも?」
「…っ!ないよ!何も言うことなんざないさ!あたしの息子は大物になると思って、喜んでるだけさねっ!」
「それはそれは、ありがとうございます。…いい息子を持って、良かったですね、お父さん」
 言ってからすぐ、弥空は眉を寄せた。
 …お父さん、なんて。何年ぶりだ。あまりにも珍しい言葉を使ってしまった。
 自分の言動に少しくすぐったい気持ちになって、それから。弥空は穏やかな瞳で桜太を見た。

 青ざめた顔で目を泣き腫らし、桜太が弥空の腕に飛び込んで来て、二日。ずっと沈んだ顔をしていた彼が、弥空や祖父に笑ってみせる様子は痛々しく、見ていられなかったけど。
 いまやっと、桜太はほっとした様子で時雨の腕に収まっている。
 ぶつぶつ言いながら脱力している、時雨の腕に捕われたままの格好で、彼は嬉しそうに頬を染めていた。
 まだ僅かに残る未練が、弥空の中で燻っているけど。これでいいのだ。この方がきっとみんな、幸せになる。

 桜太が弥空の視線に気づき、顔を上げた。ふわりと笑った顔は、諦めたはずの気持ちを取り戻したくなるくらい、艶めいて見える。
「このおじさんに飽きたら、いつでも私のところへ来るんですよ」
「弥空さん…」
 ぬけぬけと言い出す弥空に、桜太がくすっと笑った。肩を竦めた弥空も笑う。
 ああやっと、肩の荷が下りた。
「本当に、本気でどうしようもない人ですけど。…父をよろしく」
「はい」
 桜太の返事を聞いた弥空は、ぽんっと時雨の腕を叩いた。恨めしそうな顔で見上げる時雨に「お邪魔しました」と笑う弥空が部屋を出て、ぴたりと襖を閉じた。
 
 
 
 雨音の激しい、相模屋の一室。
 座り直した時雨は何も言わず、改めてすっぽりと腕の中に桜太を閉じ込め、目を閉じていた。
 一瞬だけ、外が青く明るくなって。どんっと大きな地響き。
 その瞬間、じっとしていた桜太がびくっと震える。
 時雨は桜太の顔を覗き込んで「怖いかい?」と聞いた。心配させまいと、いつもの桜太なら首を振るところだけど。時雨を見上げ、彼は少し迷って素直に頷いた。
 時雨を見ている、大きな瞳。その瞳がぐらりと揺れ、濡れていくのは雷が怖いせいばかりじゃない。
 時雨は雨で冷たくなったままの、温度の戻らぬ手で桜太の頬を撫でると、小さな唇を塞いだ。
「っ…ふ」
 甘い声が零れてくるのに引きずられるようにして、時雨の冷え切った身体も、少しずつ熱を帯びていくのがわかる。
 もう、迷いは無い。
 迷っていても仕方ない。
 桜太の身体を横たえた時雨は、そのまま覆いかぶさって、間近に可愛い顔を見つめた。
「まだ、怖い?」
「…ううん、時雨がいてくれたら、怖くない」
 掠れがちな答えを返して、桜太がふわっと微笑んだ。
「桜太…」
 ぎゅっと、小さな身体を抱きしめる。腕の中の存在が、震えている。
「…たくさん泣いたかい?」
 新月の夜、時雨に酷いことをされて。
 わずかに頷く桜太の髪を撫で、時雨は甘く潤んだ瞳を見つめた。
「随分と酷いことをして、お前さんを傷つけたね。あたしはどうしようもなく馬鹿な男だ」
「時雨…」
「桜太の怪我を見たら、頭に血が上って何も考えられなくなってしまった。本当に済まないことをしたと、後悔してる。…だから、桜太…」
 額にかかった髪をかき上げ、そこに唇を落とす時雨の顔が、辛そうに歪んだ。
「許して、くれるかい?」
 間近になった時雨の深い瞳の色が、きれいに澄んで、でも不安げに揺れているのを見て。桜太はどきりと胸を弾ませる。
 やっと、やっと時雨は彼の視界の中に、自分を映してくれた。