放っておけば自分が帰ってくるまで、惺がベッドに居座ってしまうであろうことを、あの子はわかっているのだ。
仕方なく起き上がって、それを手に取った。
一年間の司法修習期間、離れ離れの時間が堪えたのは、直人よりも惺の方だった。
頑固な性格上、惺が辛い気持ちを言葉にすることはなかったが、沈黙を続ける電話だけでも直人には伝わってしまった。
彼は幼い頃からの繊細さを失っていないから。今でも人の気持ちに、誰よりも敏感なのだ。
だから直人はそれ以来、必ず自分がどこへ行き、何時ごろ帰るかを、言葉にして伝えてくれる。
「…甘いな」
ベッドの上で膝を抱え込んだ。
惺はマグカップをじっと見つめ、溶かされたハチミツの記憶に思いを馳せていて。
ぞくっ、と背筋を走った冷たさに、手にしていたマグカップを取り落とした。
「っ…!」
中から零れたハニーティが、香りを立ち上げながら絨毯にしみを作っていく。それを見つめる惺の唇が震えていた。
―――アンタはこのハチミツと同じだ。
もう記憶の彼方に消えていた男が、あの時と同じ言葉を惺の脳裏で吐き出した。
―――甘ったるくて、ワガママで、人の言うことを聞かない。自覚がないんだろ?どれほど周りがアンタに迷惑してるか。
指先が震える。
変わらない永劫を生きる身体が、どんどん冷たくなっていく。
―――独りで生きていけるだと?偉そうに!他人に縋らなければ生きていけないのはアンタじゃないか!
研究の道具を全て机から払い落とし、惺の胸倉を掴んで怒鳴った男。彼の言葉は遠い過去に掠れた、弟たちの声を惺に思い出させるものだった。
―――自分で幸せになろうとしないくせに他人を巻き込むな!誰もアンタなんか頼っちゃいないんだよっ!
惺にそう言い放った男は、泰成に殴りつけられ部屋を出て行った。
遠い記憶。
激しく頭を振って己を抱きしめた惺は、自分が今まさに直人の温かい腕を求めていると自覚して、凍りつく。
直人には自分がいなければ。
自分が直人のそばにいてやらなければならないはずだ。
でもいつの間にか支える手を欲しがっているのは、自分の方。
震えの止まらない唇を噛み締め、惺はベッドから飛び起きる。
走り書きのようなメモに、直人が惺の不在を知ったのは、その日の深夜のことだった。
《つづく》