【君に逢いたくて〜四〜】 P:01


 ふっ、と。何度かまばたきを繰り返し、朔(さく)は目を覚ました。
 肩まで掛けられている夜着(やぎ)の中で、いつの間に着せられたのか、絣(かすり)の袷(あわせ)が細い身体を包んでいる。
 ゆっくり身体を起こしても、そばに圭吾(けいご)の気配はない。何度か眠そうに目をしばたかせた朔は、行灯(あんどん)の頼りない灯りの向こうに人影を見つけた。
「…………」
 圭吾は一人、湯に浸かっている。はっきりとした姿は見えないが、こちらに背を向けているようだ。
 気づかれないよう、朔は小さく息を吐いた。

 最近の圭吾は、後ろからばかり朔を抱くようになっていた。それは彼の戸惑いの表れなのだろうが、朔は気付かない。自分を抱く圭吾の顔を見られないことに、どうしようもない淋しさを感じている朔は、自分の方こそ戸惑っていて、圭吾の気持ちにまで頭が回らないのだ。
 圭吾の不在に桜太(おうた)がここへ来るようになり、数日後に圭吾が戻って来て。また岩壁の傷が増え出し、数日が経っている。しかし朔の心にはまだ、あの時の圭吾の顔が、棘のように刺さって抜けないままだった。
 ……優しい表情を浮かべ、笑っていた。
 その日の夜に朔の元を訪れた時は、またいつもの無表情だったし、今日だって碌に言葉を交わさなかったけど。
 でももう、朔の心からはあの時の圭吾が消えてくれない。

 とても、柔らかい表情だった。
 朔にはいつも無愛想で、必要のないことは喋ろうとしない。喋ったとしても、朔の嫌がることを見つけては、揶揄するような言葉を紡ぐだけだ。なのに桜太には、穏やかな声で話しかけていた。「悪かったな」と。自分の非を認め、囁いた言葉。朔は自分のざわついた気持ちに戸惑っていたけど。やっと気付いた感情の名前は、たぶん、嫉妬だ。
 いや、嫉妬なんて明確な気持ちじゃないかもしれない。でも、だからこそ戸惑っている。だってこれじゃ、やきもち、というのが一番近いような気さえしてしまうのだから。

 朔は今までの事を、懸命に思い返している。ここに朔を閉じ込めたとき、圭吾はただ「朔自身のせいだ」とだけ言った。朔の何を指してそんなことを言い出したのか、どんなに考えても朔自身にはわからないままだ。それなのに圭吾は睨むような視線で「自分で地獄に捕らわれたんだろう」と。同じ様な言葉を繰り返し、最初の頃は随分と責められた。

 桜太を迎えに来た圭吾からは、やっぱり血の匂いがしていたし、それは彼が「仕事」をしていたんだと朔に教えている。彼の手はまた誰かの血で染められたのだ。
 許せないと思うのも、朔の中にある心。でもなんだか、もっと圭吾のことを知りたいと思ってしまうのも、朔の正直な気持ちだ。

 朔が少しでも不自由をしないように、何かと必要なものを届けてくれる。朔が何かを欲しがったことなどないのに、それでも圭吾は牢の中を整えていってくれる。桜太には、ここに住んでいるんだろうと聞かれたけど。少年の言葉を否定できないくらい、最初に比べて檻の中は快適になってしまっていた。
 そのせいなのだろうか?朔が、圭吾の残虐な性格を忘れそうになるのは。

 寒い日は、必ず朔の着物を整え、夜着を掛けて去っていく。どうせ風邪など引かない身体だと知っているはずなのに、圭吾は必ず意識を失った朔に暖を取らせようとする。
 絶頂に気を失っている朔に知ることはできないが、圭吾は一体どんな顔で朔の身体を拭い、着物を整えたりしているのか。
 外の世界で起こっていることを、圭吾は何も話さない。彼自身の生活さえ。きっと毎日の中には、愚痴りたいような苛立たしい事だってあるだろうに。圭吾がそれを朔に八つ当たる事はない。
 確かに酷い言葉をぶつけてくるが、どれも朔と圭吾の間だけのもので、彼が外で起こったことを、朔との間に持ち込むことはなかった。

 今までは気にならなかった瑣末なことが、どんどん朔の中を埋めていく。
 たった一度、圭吾の温かさに触れただけなのに。それも自分に向けられたものではなく、桜太に向けられたものだ。
 桜太のために膝を折って、泣きじゃくる桜太を抱きしめて、圭吾の大きな手が桜太の髪を撫でていた。「悪かった」と囁いて、小さな包みを渡して。明るく笑った桜太に、ほっとした表情を浮かべて
いた。
 朔はちらりと行李(こうり)に目を遣る。中にはあの時、朔が貰った包みも入っていた。
 金平糖、とかいう砂糖菓子。きっと高価なものだ。朔など聞いたこともなかった、甘い甘いきれいな結晶。なんだか勿体無くて、ほとんど手をつけずに、仕舞い込んでいるのだが。