【君に逢いたくて〜陸〜】 P:01


 朔(さく)は溜息をつきつつ、後ろ手に扉を閉める。しかし今日は嬉しそうに飛びついて来る衝撃がなくて、戻ってきた家の中を不思議そうに見回した。
 さっき暮れ六つの鐘(午後五時頃)が鳴ったというのに、桜太(おうた)はまだ戻っていないようだ。
「どうした」
 声の方を向けば、圭吾(けいご)がこちらを向いている。自分に向けられる優しい声にはまだ慣れていなくて、朔はほんのり頬を染めた。

 好きにすればいい、と言われた日から七日。朔はまだこの家にいて、まるでずっとここにいたかのように、穏やかな毎日が過ぎていく。
 しかし時々、戸惑って下を向いてしまう朔に、圭吾もかける言葉を探すのか、黙ってしまって。そんな時は必ず桜太が間に立ち、明るく笑って話しかけてくれていた。だからと言うかなんと言うか……桜太がいないと、ついつい身の置き場がなく、どうして良いのかわからなくなるのだ。

 村に住んでいる近所の人々も、急に現れた朔をやけにあっさり受け入れてくれた。不審がられても仕方ないのに、どういうことなのだろうと思っていたら。やっとさっき、理由が判明したのだ。その理由こそ、溜息の原因。
 どうやら桜太の友人である平二(へいじ)の母親が、朔のことを「圭さんところに来た人、お医者なんだよ」なんて触れ回っているらしい。今日、村を歩いていたら方々から「あんたお医者なんだって?」と聞かれてしまった。
 違います、と慌てて否定するも、圭吾の看病をしているのは実際朔なのだからと、誰も朔の否定に耳を貸してくれない。
 確かにこんな農村では、役に立つ医者がいるはずもなくて。自分などで役に立つのならと、乞われるまま病人の症状を診てやる朔の言葉など、信じろという方が無理な話。今も村の年寄りに、薬草を煎じてやって帰ってきたところなのだから。
 流れさ迷う時間の中で、歓迎されることなど皆無に近かったから、どうにも面映い気持ちが隠せないのだが。……勿論、居心地が悪いわけじゃない。

 圭吾は敷かれた布団の上に身を起こし、肩に羽織を掛けている。
 じっと見つめてくる圭吾に居心地が悪く、朔は視線をさ迷わせながら部屋に上がった。
「あ、あの…桜太は…」
「平二んとこだ」
「え?」
 いつもは帰る時間に厳しい圭吾だというのに。首を傾げる朔を見て、圭吾は意地の悪い笑みを浮かべる。
「あんた、そればっかだからな」
「それ?」
「桜太桜太ってな。碌に話も出来やしねえ。今日は泊まって来いって言ってある。…来いよ」
 手を差し伸べられ、朔はうろたえた。
 もしかして、いやもしかしなくても、朔がこの家に来て初めて二人きりの夜、ということか?
 かあっと赤くなった朔に、圭吾は笑い出した。
「ははは、まだ何しようって訳じゃねえ」
「ま、まだって…」
「まだ、だろ?いいから来いよ」
 いつまでも圭吾が手を下ろさないから。朔は躊躇いがちに傍へ行って、彼の手のひらに自分の手を置き、腰を下ろした。
 ぎゅっと握られた手。伝わってくる圭吾の温度が、熱い。
「…熱は?」
「下がったよ。あんたのおかげだな」
 真っ直ぐな言葉。

 閉じ込められていた牢獄を出て、ここで暮らすようになって。朔の中では今まで見ていた圭吾の人物像が、ぐらぐらと揺らいでいる。
 圭吾が怪我をしたと知った村人達は、代わる代わる顔を出して見舞ってくれた。桜太の言葉で知ってはいたものの、彼がどれほどこの村で信頼を得ているかを、朔は毎日毎日思い知る。
 心配そうな人々と、言葉少なに、でも柔らかい声で言葉を交わしている圭吾。
 笑みを浮かべて話す姿は、朔を混乱させるばかりだ。

 下を向いていた朔が、ちらりと視線を上げた。圭吾はやっぱり無表情。それでも、朔を見つめる目線には、隠しようもない想いが見え隠れする。
「…無茶は、しないで下さい」
 ぽつりと零した言葉。握られている手を、少しだけ握り返してみる。どきどきと止まらない鼓動を知られてしまいそうで、なんだか落ち着かなかった。
「心配したか?」
「だって…その…」
「…桜太が、心配するから。か?」
 拗ねた声に慌てて顔を上げた朔は、思わず「違います」と口にして、またかあっと赤くなった。くすくす笑っている圭吾に、からかわれているのだと知る。
「なんでそう、意地悪なんですかっ」
「悪ぃ悪ぃ。なあそんな顔すんなよ。これっくらいの怪我、大したことじゃねえって」