顔を背ける朔の手が、少しだけ引かれる。圭吾の方を見ると、な?と。彼は余裕のある表情で朔に笑いかけていた。
「でも…あなたに何かあったら、桜太はどうするんですか…」
私だって、と。
言いかけて、さすがに止めた。
「んなこと言ってもよ。放っておけねえだろ?あのまま屋根から平二が落ちてたら、こんなもんじゃ済まなかった」
「それは、そうですけど…」
朔は唇を噛みしめる。
今の圭吾の傍は居心地が良すぎて、大事なことまで見失ってしまいそうだ。きつく目を閉じ、縋るように圭吾の手を握った。
ここに来ての七日間は、あっという間だった。圭吾の看病をして、桜太の炊事を手伝ってやって。
訪ねてくる村人の話に、圭吾の隣で耳を傾けていると、何かを相談されるたび圭吾は必ず朔を振り返った。「どう思う、朔?」と。
長く生きている朔が豊富な知識を有していると、わかっているせいだろう。彼は躊躇うことなく、朔に答えを求めてくる。おずおず自分の考えを話す朔の言葉を、圭吾はじっと黙って聞いていてくれた。
目を見て、時には恥ずかしげもなく人前で手を取って。思うままに話せばいいから、と励ましてくれる圭吾の視線は、今まで朔が知っていたものとは全然違う。
恐ろしい目をして睨みつけ、お前を解放などしてやらないと叫んだのに。獣のように押し倒して、思うまま朔の身体を蹂躙したのに。
ここにいる圭吾の元へ気持ちが傾くほど、朔の心は捩れて引き裂かれてしまいそう。
「……。だったら、どうして?」
圭吾の手を握り締め、朔は小さな問いを零した。彼の笑みを見るたびに引き攣れる痛みは、もう限界を超えていた。
「何がだ」
「どうして同じ手で、子供を殺したり出来るんです…」
人を殺して、金を奪って。
悪事の傍らにいたという、ただそれだけで幼い丁稚を殺した圭吾が、同じ手で桜太を引き取り、平二を助けている。そんな風に、ちぐはぐなことをするから……いつまでも朔の心は静まらない。
「…なんだよ。何の話だ?」
酷い男のままでいて欲しかったとさえ思う。そうでなければ、優しい顔しか知りたくなかった。
「おい、朔?あんた何言ってんだ?」
朔は顔を上げた。真っ青な顔色に、圭吾の方が驚いている。
「あんた…なんて顔してんだ」
「町で会った日のことを、覚えていますか?」
声が震える。
何も聞かずにいれば、何も知らなかったことにすれば、痣が消えるまで優しいだけの時間が流れるかもしれないのに。
わかっていても、それでも。
自分の中から消えようとしない曖昧な甘えを、朔はもう見過ごせなくなっていた。
「…忘れる訳がねえだろ」
「あなた、仕事の帰りだったでしょう?」
「ああ。…よくわかったな」
「知って、います」
「…そうだな。あいつと一緒にいたもんな」
圭吾が初めて、苦々しい顔になる。あいつというのが誰なのか、気にはなったが問いかけるのは止めた。胸を占める絶望が、そんな些細なことを口にさせなかった。
否定、しないのか。
してくれないのか。
あの日した行いを、隠す価値もないことだと思っている?それくらい、圭吾にとっては日常的なことなのだろうか。
「ここにあるものも、私に買って来てくれたものも、全てそうして手に入れたお金なのでしょう?」
「…まあ、そうだが…」
ぎゅうっと痛くなる胸に、朔は圭吾と繋いでいない方の手をあてた。朔が口にしていた全ては、誰かから奪った金で得たもの。
「誰かの血に染まったお金で、何が出来ると言うんです…。桜太が知ったら、どんなに悲しむと思うんですか…っ」
どんなに唇を噛みしめても、涙が溢れるのを止められなかった。朔は握り合う圭吾の手に力を込めて、自分の額に押し付ける。
お願いだから、と。
もう祈るような気持ちだった。
「あんた…何言ってんだ…?」
「お願いです…」
「だから、何がだよ…?」
「もう、やめてください…」
「おい。わかるように言えよ朔」
涙で濡れた瞳に圭吾を映し、朔は彼の首に手を回して抱きついた。肋(あばら)の怪我に触らぬよう、ゆっくりと。でも強く抱きついていた。
「人を殺めて奪ったお金なんかでは、誰も幸せに出来ないんですよ…」
涙が止まらない。圭吾の肩を濡らして、朔は震えていた。
「………。は?」
呆然とした圭吾の声。